三国志といえば、魏呉蜀という三つの国が覇を競い合い、あまたの英雄豪傑たちが、それぞれの理想をかかげてしのぎを削った大河ドラマ!
特に、後年編纂された物語文学である『三国志演義』は、劉備玄徳という君主と、諸葛亮孔明というそのよき補佐役が、小勢力からいかに蜀という国を建国し、天下まであと一歩のところまで迫れたか、という成長物語が軸となっています。
ただし、今ではよく知られている通り、『三国志演義』の主役である劉備と諸葛亮は、けっきょく天下を取る夢は果たせませんでした。
そうはいっても、荊州の一角から、中国の天下を三分する勢力のひとつ、「蜀」という国を立ち上げたことだけでも、十分に凄いことですが。ところで、ここでまた、あえて実際の三国志演義とは違う人物たちが活躍できるような、少し変わったイフ考察を行ってみたいと思います。
劉備玄徳は、有名な「三顧の礼」のエピソードを経て、諸葛亮孔明と出会うのですが、もし、この出会いが、なかったとしたら?その世界線での劉備軍は、そもそも、蜀建国までたどり着けるのでしょうか?
この記事の目次
意外?諸葛亮が陣営に入らずとも劉備軍はかなり戦えた!
まず実際の時間軸を再整理しましょう!劉備玄徳が、諸葛亮孔明に出会う直前、彼は荊州の一角で小さな勢力を養っていました。荊州の領主は、劉表。
この劉表は、劉備に荊州を譲ろうという意思すらあったようなのですが、天下の評判を重視する劉備はその誘いを断ります。それゆえに、後年、曹操軍が南下してきたとき、劉備は孫権軍の陣営に逃げ込まざるをえない状況に追い詰められました。ですが、この荊州という土地は、実は人材の宝庫。
諸葛亮孔明が、臥竜と呼ばれていたのに対して、龐統は、鳳雛という名で、その才能を称賛されていました。つまり、諸葛亮孔明と並び称される人材として、荊州には龐統が住んでいたのです!となると、こう考えられないでしょうか?
諸葛亮孔明がいなくても、この、龐統という人物を、メインの軍師として、劉備が早い段階に迎え入れていれば、諸葛亮孔明に匹敵するような活躍を、龐統がしてくれたのではないでしょうか。龐統中心の組織にすることで、諸葛亮との出会いがない劉備も、かなり戦える組織を作れたのではないでしょうか?
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諸葛亮と龐統のタイプの違いをここで整理
そもそも龐統とはどのようなタイプの軍師だったのかを、実際の『三国志演義』での龐統の活躍を思い出しながら整理してみましょう。劉備と龐統との出会いは、劉備と諸葛亮との出会いよりもずいぶん後、有名な赤壁の戦いが終わった後のこととなります。
そして劉備は、諸葛亮を荊州に残し、益州攻略の際には龐統を従えました。残念ながら龐統は、この益州攻略戦の途中、「鳳雛」というあだ名の彼にとっては運命的に不吉な地名、「落鳳坡」という土地で非業の死を遂げてしまうのですが。それゆえ、龐統が実際に劉備の下で働いた期間はとても少ないのですが、この期間だけでも、龐統が諸葛亮とはまた違ったタイプの軍師であったことがわかります。
すなわち、諸葛亮が慎重派であり、軍事のみならず、内政や外交のバランスにも気を配って、諸事ぬかりなく地盤を固めながら進むのに対して、龐統はかなり迅速な攻撃派、地盤固めよりも、益州乗っ取りのような、大胆な攻撃作戦の時に、劉備から重宝されました。
そして侵攻に際しては、かなりエグい策略や工作も仕掛けるところがあり、人心掌握に気を配って無理な争いを避ける傾向の諸葛亮とは違う印象です。
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荊州での「逃走劇」がそもそも発生しない世界線
益州攻略戦で、そのような「速攻重視」の傾向を見せた龐統。劉備が諸葛亮と出会わず、かつ、早い段階でこの龐統をこそナンバーツーにしていたら、三国志はどうなっていたでしょうか?まず考えられるのは、龐統は曹操軍が南下してくるよりも先に荊州・益州を迅速に劉備軍が抑えてしまうという、「超速攻での三国鼎立戦略」を提言したのではないでしょうか。
つまり、実際の三国志演義では、劉備は劉表から荊州を奪うことをためらい、それゆえに曹操軍の南下に押されて孫権軍に逃げ込むことになりますが、早いうちから龐統が劉備軍に入っていた場合、劉備の許可を待たずに、龐統がさっさと謀略をめぐらして劉表一家を滅亡に追い込み、劉備に荊州を取らせたのではないか、ということです。
なんと、曹操軍が南下してくる前に、劉備が劉表から荊州全域を奪取しており、万全の軍事力をもって防衛にあたれるシナリオ!これでは、そもそも赤壁の戦いが起こりません!
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龐統は益州をも迅速に落とす「電撃侵攻作戦」を提案する?
それだけではありません。龐統はおそらく、曹操軍が南下してくるよりも先に、超速攻で益州を侵攻し、魏や呉よりも先に、「蜀」の建国宣言をする戦略を提案したかもしれません。
赤壁の戦いが起こるよりも早い段階で、龐統主導による、蜀への電撃侵攻作戦!これが成功すれば、赤壁の戦いをすっとばして、早々に「三国鼎立」時代が訪れていたかもしれません。
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まとめ:しかし龐統はけっきょく「落鳳坡」で早すぎる死を迎える
劉備が諸葛亮と出会わないこの世界線では、龐統こそが劉備の懐刀として、史実よりもかなりハイペースで、荊州と益州を占領する戦略が採用されました。ただしこのシナリオには、とんでもなく劉備軍にとって危険な未来が待っています。
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三国志ライターYASHIROの独り言
龐統は、益州に向かう途中、彼にとって不吉な地名、「落鳳坡」で戦死することが運命づけられているのです!せっかく電撃作戦で蜀を取りに行ったのに、いちばん肝心なところで龐統は結局、落鳳坡に散ってしまう!このシナリオでは蜀の建国は早まりますが、そのかわり、その滅亡も早いかもしれません。
とはいえ、諸葛亮がいなくても、龐統がかなりの才腕を中国史に刻み付けるという、この「電撃侵攻作戦」シナリオ。龐統が諸葛亮とはまた違うタイプの「天才軍師」として大暴れする面白さがあるかもと思いましたが、いかがでしょうか?
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