竹林の七賢(ちくりんのしちけん)とは、中国の三国時代、魏から晋に至る間に、俗世から離れた竹林の下に集まり、文学を愛し酒や琴を嗜み、高尚な清談を楽しんだ7人文人たちのことです。
竹林の七賢は、河南省出身の阮籍(げんせき)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、阮咸(げんかん)、安徽省出身の嵆康(けいこう)、江蘇省の劉伶(りゅうれい)、山東省の王戎(おうじゅう)の7人からなります。
さて、竹林の七賢はどのような背景で現れたのでしょうか?
何を目的としてどのような活動していたのでしょうか?
今回は、彼らについて、ご紹介致します。
”竹林の七賢”の誕生した時代はどのようであったのか?
竹林の七賢は、魏から晋に至る間に誕生しますが、その流れは後漢から続いていると考えられます。後漢末期の政治は私利私欲に走った宦官達によって、酷く荒れ果てたものでした。さらに公巾賊が現われ、次いで董卓の乱が起こり、乱世に突入していきます。
極めつけは曹操(そうそう)が実質的な権力を握り、本当は一番偉い献帝より強い権力を持ちました。こうした権力者は見かけの上で、礼を重んじていました。しかし、民からしてみれば、儒教や礼法等、権力者が行うそうした作法は、形だけのものでしかなく偽善的なものでした。
形の上では礼儀を示しつつ、実際は他人を貶めたり、簒奪したりしていました。曹操(そうそう)死後の魏末では権力の簒奪の流れは一層強くなり、今度は司馬(しば)一族が権力を奪いつつありました。魏の国の人々もいずれは権力が移ることが薄々分かっているような状況でした。
要するに皆自分勝手で「何でもアリ」で「権利は奪うモノ」だったのです。
権力と知識人との関係
簒奪によって権力を握った曹操(そうそう)ですが、その家臣の中にも、曹操(そうそう)のやり方に反対する者はいました。特に、荀彧(じゅんいく)は曹操(そうそう)のために、事あるごとに献策し尽くしていました。
しかし、曹操(そうそう)が「公」の位に就任する、という話が持ち上がった時、荀彧(じゅんいく)「公の位は、皇族のみの位です。そもそも我が君が立ちあがったのは、朝廷の家臣として、漢室を再興するためであったはずです。そんなことは君子の成すべきところではありません。」
これが元で、荀彧(じゅんいく)は曹操(そうそう)と対立してしまいます。
同様に、孔融(こうゆう)や楊修(ようしゅう)も曹操(そうそう)と対立し、処断されることになります。曹操(そうそう)は才を愛し、彼らはいずれも知識人で才に溢れていましたが、その彼らすら曹操(そうそう)と対立してしまうことになったのです。
竹林の七賢の誕生
竹林の七賢は魏末期~晋において、乱世の争いや権謀術数主義的の政治を嫌い、それらに対して歯に衣着せぬ言動で批判をした人たちとして知られています。
確かに知識人はこうした中にあってこそ、己が才を示すべきですが、前述した理由から立ち居振る舞いを慎重にしなければなりませんでした。権力者に反抗すると何かと理由をつけて殺されてしまいます。
魏末では、曹一族VS司馬一族の状況であり、権力を握り始めた司馬氏(しばし)に目をつけられてはおしまいです。これに抗うべく、竹林の七賢は礼を重んじない自由奔放な振舞いと酒びたりの生活を始めたのです。
「なぜ、自由奔放な行動? なぜ、酒が出てくる!!?」と考えるかもしれませんが、これが非常に重要なことなのです。
もしも、消極的に仕事をしなければ、厄介者として処罰されますが、頭角を示しても司馬(しば)一族に目を付けられてしまいます。「働かない不利益」と「働く不利益」がある訳です。しかし、礼儀を守らず、取るに足らない者として振る舞えば、狙われることはありません。
また、酒浸りにだらしない人間に見せることで、間違いがあっても酒のせいとなり特別目を付けられてなければ、命を奪われることはありません。また、成果を出しても「飲んだくれも少しは使えるか」程度です。このように「働かない不利益」も「働く不利益」も受ける事はありません。要するに、奇行と酒を隠れ蓑にして自身の身の安全を計ったのです。
竹林の七賢は何をしていた?
具体的に彼らはどのような事をしていたのでしょうか。何曾(かそう)は司馬昭(しばしょう)に阮籍(げんせき)は礼を知らない奴であるということをチクリ、左遷させようとしました。
しかし、司馬昭(しばしょう)は阮籍(げんせき)がガリガリになり元気が無いのを見て、憐れに思いました。司馬昭(しばしょう)「何曾(かそう)よ。あいつにもいろいろあるのだ。」何曾(かそう)「・・・はい(いや、あれ芝居だろ…)。」
また、鍾会(しょうかい)は時事に関して議論をしかけ、阮籍(げんせき)から失言を取ろうと考えましたが、阮籍(げんせき)は酒を飲みながら意味深な発言(実は無意味?)をすることで、全て回避しました。意味が理解できなければ失言とはなりませんし、万一失言となっても、酒の上での話です。
また、劉伶(りゅうれい)に関しては、うっかりヤンキーに絡まれた時に、劉伶(りゅうれい)「(自分のような)こんなガリガリのやせっぽちって、殴る価値も無くないっスか?」等と述べ、相手はやる気が失せて去って行きました。もはや、権力争い以外でも危機回避を行っていました。こうした彼らの奇行は、他のにも記録が残っており、劉義慶(ぎけい)の『世説新語』に記されています。
竹林の七賢は儒教が嫌い
「世説新語」には彼ら竹林の七賢の実際の行いが記されていますが、いずれも礼儀知らずの行いばかりが記録されています。でも、彼らには彼らなりの目的があったのです。
彼らは儒教を嫌い、もっぱら老荘思想にのめり込んでいました。今回は記しませんでしたが、世説新語に記されている物語の中には、「”儒教の作法”や”形式的な祈り”等、型に嵌った行為はその実、心が込められていない」というメッセージが込められた物語もあります。
行為は、一見奇怪で稚拙で何とも言えませんが、その動機には確かなものがあったのです。特に、王戎(おうじゅう)は礼儀を損なう程、親族の死に悲しむ等、情に厚い面がありました。
竹林の七賢の目的
彼らは、奇行と酒を隠れ蓑に危機を逃れていました。しかし、身の安全を守ることとは別に、彼らには目的がありました。竹林の七賢は以下の言葉を残しています。
「天地にも四季にも、やはり移り変わりがある」この言葉は、今の暗黒の世もいずれ終わりが来る、だから天命が移るのをひたすら待ち”天の時”まで生き延びようという意味を含んでいます。阮籍(げんせき)は、もともと世の中のためにその才を使おうという志を持っていました。しかし、才あるものが生きるには当時はあまりに生きにくい時代だったのです。
彼らは、世の中を救うため、その才能を生かすその時まで「生きる」ことを目的としていました。
三国志ライターFMの独り言
竹林の七賢は、乱世を生き伸び、世の中を良くしようという賢者たちの考えが生んだ集まりでした。足の引っ張り合いや醜い権力争い等、味方同士の争いは馬鹿馬鹿しいようでどこにでもあります。
そういう意味では、彼らの行いは現代社会でも応用できます。会社で嫌味な上司やちょっかい出してくる同僚がいた時等、彼らの処世術は生かせるかもしれません。嫌味を言われても劉伶(りゅうれい)のように「私にそんなこと言うのは時間の無駄では?」みたいに会話を終わらせたり、阮籍(げんせき)を真似て上司を味方につけるのも良いでしょう。
間違っても職場でお酒を飲まないようにしましょう。うまくいけば、嫌味を回避できます。失敗しても、変人扱いされるだけです。
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