26歳の若さでこの世を去った孫策。父の急死により軍を率いたのが、孫策の武勇伝の始まりでした。戦乱の世においては日常茶飯のできごとと言えるでしょう。
しかし、孫策にとって忘れてはならないのは父の仇・黄祖。三国志演義を元に孫策、ひいては孫家と黄祖との長きに渡る因縁を見ていきましょう。
黄祖と孫策の父
孫策の父である孫堅は「袁術」の部下でした。あの反董卓連合のトップです。
孫堅は呉の代表というイメージもありますが、それは後の話。最初は誰しも無名なのです。
西暦191年4月。
袁術は荊州討伐に「孫堅」を指名し、劉表を討ち取るよう命令を下します。対する劉表は樊城にいる黄祖を指名、鄧県で迎撃するように指示。孫堅は見事に「黄祖」を破り、チャンスとばかりに黄祖の追撃を開始。
漢水を超えて劉表の本拠地・襄陽をぐるりと囲みます。ところが、親玉の劉表は門を閉ざし、まったく戦おうとしません。城を抜け出して、密かに黄祖に兵を集めさせたのです。
黄祖が軍隊を連れて戻ってくると、再び孫堅と戦いになります。またしても黄祖は潰走し、峴山(現在の湖北省にある山)へと逃げ延びますが、背後から孫堅が追撃。すると黄祖の部下が竹林の間から矢を放ち、孫堅は息を引き取ります。
実に急な「死」でした。やむなく息子の孫策が父の部隊のトップとなり、後を継ぎます。こうして黄祖の部下が父・孫堅を討ったことから、孫家にとって黄祖は忘れるに忘れられない「仇」となったのです。
袁術の死と黄祖
父・孫堅の後を継いだ孫策は着々と江東で勢力を伸ばします。諸侯の反乱を鎮め、一通り江東の地は孫策が治めるに至りました。ちょうどその頃、目の上のたんこぶだった袁術が亡くなると残党兵は「劉勲」の元に身を寄せます。
残党兵といえども、なかなかの手練れ。北の曹操も東の孫策も自軍の兵力に加えようと権謀術数を巡らせます。孫策は手始めに劉勲へと手紙を送ります。内容は「上繚」にいる敵を共に討伐しよう、というものでした。
まんまと罠にかかった劉勲は上繚へと攻め込みます。本拠地の皖(現在の安徽省)はもぬけの殻となり、残ったのは残党兵のみでした。孫策は、あっさりと皖を落とし集中に収めます。
ついに孫策と黄祖が対峙!
さて、にっちもさっちもいかなくなった劉勲。今度は夏口にいる黄祖へと助けを求めます。しかし、黄祖といえば父・孫堅の命を奪った仇敵、孫策が指をくわえて見ているはずがありません。
黄祖が援軍を送る前に劉勲の陣営を急襲し、陥落させます。敗れた劉勲は北の曹操の元へと逃げるのです。
すると孫策はターゲットを黄祖に変更。ついに父の仇を討つときが来ました。黄祖はボスの劉表から援軍を送ってもらい「劉虎」を先鋒にして対決。しかし、孫策にとって劉虎など塵に同じです。
瞬殺して、黄祖を攻撃しにかかります。すると黄祖は一旦、兵を「夏口」まで引き上げ、防衛態勢を取ります。これを見た孫策は攻め込まずに、じっくりと攻めようと「豫章」の攻略を優先。
豫章太守の「華歆」を屈服させ、江東の五郡を治めるに至りました。その後、孫策は曹操の陣地を攻めます。ところが緑豊かな長江沿いを馬に乗って散歩していたところ、スパイの放った矢によって負傷。
矢の一つは頬を貫き、孫策はほどなく命を落とします。一般感情としては江東の平定よりも黄祖を打ち取りたいところですが、周瑜や妻に止められたのでしょう。まずは江東の地を支配することが孫家の繁栄につながると。
その証拠に曹操は政略結婚によって孫家と親戚関係になっています。孫策の名声は、遠く離れた地の曹操にとっても脅威に映ったのでしょう。このように三国時代は魏・呉・蜀が敵でありつつも交流を計っていたところに面白さがあります。
三国志ライター上海くじらの独り言
さて、孫策が討ち取れなかった黄祖の仇は弟の孫権が取ります。実に西暦208年のことでした。記録によれば孫家は黄祖を倒すために5回も遠征しています。それを退けた黄祖もなかなかの腕前ですが、討ち取った孫権の手腕も見事です。
そうした努力の甲斐もあって、呉は三国の中で最も長く繁栄します。皇帝は4代に渡り、初代の孫権が建立したと言われる「龍華寺」は今も上海市徐匯区龍華路にあるのです。
参考書籍:参考書籍:「三国演義(中国語版)」羅貫中/長江文芸出版社
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