湖北省武漢の西。荊州古城は水に囲まれた風情のある城です。
三国時代の荊州は蜀の前線基地として、関羽が治めていました。
その荊州を奪還した陸遜、いかにして軍神・関羽を打ち取ったのでしょうか。
荊州は蜀の前線基地
今では観光スポットとなっている荊州古城ですが、三国時代は蜀軍の前線基地でした。例えるなら大韓民国と朝鮮の間にある板門店のような位置づけです。
江東の孫権にしても、中原を制する曹操からしても荊州は地理的に重要な場所でした。
孫権から見れば、西の蜀へ向かうには必ず荊州を通ります。一番分かりやすいルートです。
現在でも荊州と成都の間は交通が不便です。当時の呉軍からすれば荊州を押さえられれば、蜀への足掛かりをつかむことができたのです。
北の曹操から見ると蜀へ回る最短ルートではありませんが、呉軍も蜀軍も見張ることのできる位置。
攻略の必要性は低いものの、スパイを放つにはうってつけのエリアだったのです。
関羽が建てた荊州古城
桃園の契りを交わし、劉備から絶大な信頼を得た関羽。人生の後半は劉備とは離れ、孤軍奮闘する姿が描かれます。
荊州古城は関羽が建てたもので、現在もその姿を留めています。
”古隆中”と並ぶ湖北省の観光スポットなので機会があれば訪ねてみるといいでしょう。
陸遜、呂蒙に推薦される
呂蒙が軍師代理として推したのが「陸遜」です。
当時、荊州を攻略するにあたって関羽に名前が知られていないことも決め手となりました。
敵と対決で相手の情報が全くないのが、軍師にとって最も不安な状況です。
腕っぷしがいいだの、頭が切れるといったインフォメーションがあれば、それをとっかかりに作戦を練ることが可能です。
軍師の呂蒙らしい推薦理由と言えるでしょう。
陸遜のメール
手始めに陸遜は関羽へと手紙を送ります。これによって動静を探ろうという魂胆です。
陸遜の手紙を読んだ関羽は呉軍は大したことはない、警備緩めても大丈夫だろうと高を括ります。
しかし、これが陸遜の計略の一つでした。豪胆な関羽を油断させることに成功したのです。
忠義に厚いが戦略家ではない関羽。無名の陸遜を侮ります。
呉軍のコスプレ
陸遜の偵察情報を得た孫権と呂蒙はチャンスとばかりに荊州奪取を決意します。槍兵に白い服を着せ、商人になりすまし荊州へと潜入させるのです。
陸遜の手紙によって警備を緩めていた荊州はあっさり呉軍の手に落ちます。
関羽の妻は捕らわれ、補給もままなりませんでした。しかし、関羽は呉軍の行いは非道であるとして、降参しませんでした。
陸遜、夷陵に陣を張る
南下する途中で関羽は南郡が占領されたニュースを耳にします。そして、騎馬隊を率いて南郡に引き返すのです。
時を同じくして孫権は陸遜を宜都へと派遣します。途中、夷道などを占拠し、あの”夷陵”に陣を構えるのです。
関羽の軍隊は途中、江陵が占領されたことを知るとわずかな部隊を率いて麥城へと撤退。朱然らによって退路を断たれた関羽は健安24年12月に命を落とすのです。
陸遜の出世階段
時に名前が知られていないことは有利に働きます。なぜなら、敵兵を油断させることができるからです。しかし、陸遜の送った手紙の文面が関羽を油断させる内容でなくてはなりません。陸遜は自分の立場を客観的に観察して、利用したのです。これぞ軍師の鑑です。
やがて、陸遜は荊州奪取の功績を称えられ、「鎮西将軍」に任命されます。
鎮西とは「西を鎮める」の意で、しばしば古代中国ではこうした二つ名のようなネーミングが用いられます。
他にも”鎮東将軍”、”鎮南将軍”、”鎮北将軍”があり、合わせて四鎮将軍と呼ばれます。
三国志ライター 上海くじらの独り言
陸遜が鎮西将軍のきっかけをつかんだ”荊州奪取”をテーマに執筆しました。
当時、呉軍の軍師は呂蒙がメインでしたが、めきめきと頭角を表し、陸遜は活躍の場を広げていきます。
チャンスはそれを迅速につかんだ者に訪れるのです。
陸遜が関羽を油断させるような手紙を書くスキルがなければ、荊州が呉軍の手に渡ることはなかったでしょう。
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