三国時代といえば激しい戦が毎日のように繰り広げられていたイメージですが、三国一の大国・魏では文学サロンが立ちあげられ、曹操をはじめとする詩文愛好家が自由に楽しく詩を詠んでいました。第二次世界大戦中、日本が総力戦で苦しんでいるときにアメリカではミッキーマウスが生み出されていたようなものだったのでしょうか…。
そんな余裕綽々の魏では詩文に優れた人々を讃え建安の三曹七子と呼んでいたのだとか。この三曹七子とは一体どのような人たちだったのでしょうか?10人の詩文愛好家たちを一挙ご紹介したいと思います。
この記事の目次
筆頭はもちろん我らが曹操
三曹の筆頭に挙げられるのは当然ながら魏の太祖・曹操です。儒教嫌いの曹操は儒教に代わるものとして詩文を愛し奨励したと言われています。曹操の死は音楽にのせて歌う楽府ばかりで、戦に関する内容のものが多かったようです。
父譲りの文才の持ち主・曹丕
曹操の次に挙げられるのは魏の初代皇帝となった曹丕です。正史『三国志』において陳寿に「文学の資質には天稟といえる趣がある」と称されており、なかなかの文才の持ち主だったようです。父と同じように楽府を得意としていましたが、果物のおいしさを讃えた面白い詩も詠んでいますよ。
誰をも凌ぐセンスを誇る曹植
曹丕を嫉妬に狂わせるほどのセンスを持っていたとされる曹植も三曹の1人。曹植の詩は荘厳華麗な貴公子の暮らしから庶民の喜怒哀楽に至るまで様々なものを題材としており多様性に富んでいるのが特徴です。鍾嶸の『詩品』でも最上位の上品に列せられており、詩人として最も高く評価されています。
詩を愛した孔子の子孫・孔融
後に曹操の怒りを買って殺されてしまう孔融ですが、建安文学サロンの一員でした。孔融の祖は詩と音楽を愛した孔子ですから、彼も詩文を愛していたのでしょう。
曹丕は孔融の詩文を「揚雄や班固にも劣らない」と高く評価し、孔融の文章を届けた者には褒賞を与えたと言います。
毒舌なら誰にも負けない陳琳
曹操をその祖父・曹騰の代からこき下ろした衝撃的な内容の檄文を書きあげたことで有名な陳琳も建安の七子の1人です。文学サロンでもあの毒舌をふるっていたのかは不明ですが、曹丕には「文章は雄健だけれど、ちょっと煩雑」と評されており、やっぱりわざわざ余計な言葉を差し挟むのが癖だったと思われます。
不朽の人物と称された徐幹
徐幹は貧しい生まれでしたが、文才によって曹操に見出され、五官将文学にまで昇進しました。彼は詩や賦などの韻文に優れ、曹丕に「不朽の人物」と称えられました。
即興詩の達人!?王粲
筆をとれば瞬く間にさらさらと詩文を編んで見せた王粲。あまりの速さに人々は前々から温めていた詩を披露したのだろうと思ったそうですが、彼の詩は全て即興。王粲が即興で詩をつくることができたのは彼が並々ならぬ努力をした結果だそう。ちなみに、詩に限らず歴史書『英雄記』も編んでおり、多才な人物であったことが窺えます。
謎多き天才詩人・応瑒
建安の七子の中でもその実態があまり知られていないのが応瑒。応瑒については現存する作品がとても少なく、詩からその人物像を窺い知るのは難しそうです。ただ、曹丕からは高く評価されており、弟の応璩もまた文才溢れる人物だったようです。
法律なんてクソくらえ!劉楨
自由奔放を地で行っていたという困ったちゃんな劉楨も建安の七子に名を連ねています。曹丕の夫人をガン見して死刑になりかけるという驚くべき経歴の持ち主ですが、その文才は本物だったようで、特に彼の五言詩はどれも素晴らしいものばかり。建安の七子の中でも王粲と共に最高評価を受けています。
詩より文章の方が得意かも…阮瑀
竹林の七賢として有名な阮籍の父親である阮瑀も曹操の文学サロンの一員でした。しかし、彼の詩の評価はそれほど高くなく、詩人というよりも文章家のきらいが強かった模様。陳琳と一緒にあのとんでも檄文を生み出したというのだからなかなかの曲者だったのではないでしょうか…?
三国志ライターchopsticksの独り言
個性あふれる三曹七子の面々をサラッとご紹介させていただきました。書き足りないことはたくさんありますが、そのうち一人一人の詩文を紹介できたらいいなと思います。それにしても彼らが集まる文学サロンは和気藹々として楽しい空間だったことでしょうね。彼らと一緒に詩文を詠むのは難しいですが、彼らが詩文を嗜んでいる姿をこっそり覗いてみたいものです。
▼こちらもどうぞ