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[三国志の裏側]曹丕が選んだ「魏」という国号の真相

2023年11月6日


三国志の地図

 

三国時代、中国大陸を3つに分かった国は、言わずと知れた・蜀・呉の3国です。しかし、皆さんはこれらの国の正式な国号についてご存知ですか?

 

皇帝に就任した曹丕

 

まず魏ですが、曹丕(そうひ)が皇帝となった際、彼は父から受け継いだ(ぎおう)という称号から国号を「魏」と定めました。その後、一般的に彼が建てた王朝は戦国時代の魏などと区別するために「曹魏」と呼ばれるようになりました。

 

張悌(ちょうてい) 呉の兵士

 

孫権(そんけん)はその祖先がかの有名な兵法家・孫武(そんぶ)であり、孫武は春秋時代に呉で軍師として活躍した人物であることから国号を「呉」と定めます。彼の国はその後やはり春秋時代の呉と区別するために「孫呉」と呼ばれるようになりました。

 

漢中王になる劉備

 

最後に蜀ですが、実はその国号は「漢」。劉備(りゅうび)は漢王朝再興を目指していたわけですから、あえて新しい国号を定めることをしなかったのです。しかし、それではやはりちょっとややこしいということで、後の人が前漢王朝や後漢王朝と区別するために春秋時代にその地に蜀という国があったことに因んで「蜀漢」や「蜀」と呼ばれるようになりました。このように、春秋戦国時代に因んだ国号を定めたり、後から呼ばれたりしている三国ですが、実は魏は他の国号になる可能性もあったのだとか…?

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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でっかい魏には主要都市がたくさん!

銅雀台

 

魏は三国の中でも随一の国力を誇る国でした。前漢王朝が都としていた長安や後漢王朝が都としていた洛陽といった巨大都市を2つともその領内に抱き込んでいるのですから、当然人口も多く物資も豊かだったのです。

 

献帝を保護する曹操

 

しかし、他にも大きな都市はたくさんありました。その昔袁紹(えんしょう)が軍事拠点としていた鄴、曹操(そうそう)献帝(けんてい)を住まわせた許、曹家が代々栄えてきた地であり、曹操が生まれた地でもある譙です。これらの3つの都市は、魏の領内でも特に栄えていた都として有名です。そして、これらの3つの都市と先に挙げた長安や洛陽の2つの都市は、総称して「魏の五都」と呼ばれています

 

 

 

都が「許」じゃないのは何故!?

献帝

 

曹操は献帝を半ば強引に許まで連行し、許を都にしたということはよく聞く話ですが、実は許が都になったことは歴史上一度もないのだとか。曹操は献帝を自分の影響下にある許に一時的に住まわせていただけで、許を都として整備することはありませんでしたし、そこに本拠地を構えることもなかったというのです。

 

では、その頃曹操自身はどこに本拠地を置いていたのかというと、かつて袁紹がブイブイ言わせていた鄴。しかし、鄴は当時それほど大きな都市ではありませんでした。それなのに曹操が鄴を本拠地としたのはなぜかというと、袁紹勢力を支持する勢力が意外にもたくさん残っており、そういった輩に睨みをきかせるためだといわれています。そうは言っても曹操は、ここに豪華絢爛な銅雀台を築いて優雅に詩を詠んだり女をはべらせたりしていたわけですから、けっこう鄴の地を気に入っていたのでしょうね。

 

 

もしかしたら「魏」ではなく…

もしかしたら「魏」ではなく

 

曹操は鄴を本拠地としていたことから、魏王の位につきます。曹操が魏王となったのは、戦国時代に鄴の地が魏に属していたため、鄴は魏国の領土というイメージが根付いていたからです。しかしこの鄴の地はそもそも春秋時代に斉国がつくった都市であり、戦国時代の終わりごろには魏は趙に鄴を差し出しちゃっています。

 

そんなわけで、その当時の人々のイメージや捉え方次第では、曹操が斉王(せいおう)趙王(ちょうおう)となっていた可能性も無くはなく、国号が斉や趙になっていた可能性も考えられるのではないでしょうか。また、そもそも鄴に袁紹を根強く支持する勢力が残っていなければ曹操が鄴に本拠地を構えることも無く、出生地である譙や元の都である洛陽や長安に本拠地を置いた可能性も考えられるでしょう。曹操が鄴以外に本拠地を構えていたら、国号はまた別のものになっていたかもしれませんね。

 

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

曹丕は皇帝の位を譲られて国号を魏に定めた後、ほどなくして洛陽に遷都しています。結局魏とあまり関係のない地に魏王朝を置くことになったわけです。かといって曹丕は国号を変更することはなく、むしろ火徳を掲げる漢王朝によって雒陽となっていた地名を従来の洛陽に戻したようです。まぁ国号をコロコロ変えられては皆迷惑ですし、魏王・曹操のメンツを立てるという点でも、国号は魏のままにしといて良かったと思います。

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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