王朝末期というのはどの王朝も暗くてどんよりした空気が漂っていてその時代の史料を読むだけでも暗い気持ちになってしまいます。『三国志』も当然ながらご多分に漏れません。「劉備と曹操がドンパチやってた頃は好きだったんだけどね…」そう思っている人はかなり多いのではないでしょうか?
しかし、そんな暗い時代にもダイヤのような素晴らしい輝きを放つ武将は誕生していました。そのうちの1人として名を挙げられる人物こそが羊祜です。今回は斜陽にさしかかった魏王朝で一際輝きを放った彼の生涯を追ってみましょう。
仕官することを拒んだ羊祜
羊祜は泰山郡の名家に生まれたお坊ちゃん。彼は魏の名門・夏侯氏から妻をもらい受けるほどその才能を高く買われていました。しかし、もらい受けた妻というのが後に蜀に亡命してしまう夏侯覇の娘。多くの親族が妻を白い目で見る中、羊祜だけは彼女を優しく慰めたと言います。なんて素晴らしい夫なのでしょうか…!
羊祜は「死ぬ覚悟で人に仕えるというのは難しい」と平生より考えていたらしく、誰かを主君として仰ぐことはしていませんでした。
その頃は曹爽が司馬懿と対立しており、特に曹爽の方は自分の味方を増やそうと奔走していました。そこで白羽の矢が立ったのが羊祜です。王沈から誘われた羊祜でしたが、やっぱり「人に仕えるのは難しい」と言って断ります。結局曹爽は司馬懿にクーデターを起こされて命を落とし、更には王沈も曹爽に与していたということで官位を剥奪されていますから、羊祜の目は正しかったと言えます。
朝廷内では中立の姿勢を貫く
人に仕えることを拒否し続けていた羊祜ですが、皇帝が人を招聘する際に用いる公車によって司馬昭に召し出されると流石に拒否するわけにもいかず、魏王朝に仕えることを決意します。その頃は曹氏が司馬氏から実権を取り戻すよう願う者たちとこのまま司馬氏の政治が続くことを願う者たちが朝廷内でドロドロの争いを繰り広げていたのですが、これについても羊祜は「我関せず」の姿勢を貫き通しました。
中にはそんな羊祜の態度を気に入らない者があり、讒言されて中央から遠ざけられてしまったこともありましたが、すぐに中央に復帰して王朝の国家機密を任されるほどに出世します。その後、魏に代わって晋が立てられても羊祜は中央で大変重んぜられました。
呉の攻略に出向く
司馬炎が中華統一のために呉を滅ぼそうと思い立つと、羊祜はその中心的役割を与えられました。羊祜は荊州に派遣されたのですが、呉から降ってきた者はもちろんその地に住む民草にも慈愛の心で接しました。また、時には自分が重要なポストにいるということも忘れ軽装で出歩くこともしばしば。おそらく羊祜は民草に威圧感を与えたくないと考えていたのでしょう。しかし、部下から「あなたの安否は国の安否なんですよ!」と注意されてからは軽装で歩くことをやめたと言います。
ライバル・陸抗との攻防
羊祜の呉攻略は順風満帆に見えましたが、ある武将の知略に引っかかって撤退を余儀なくされてしまいます。ある武将というのは陸抗です。この陸抗とはしばらくにらみ合いをすることになるのですが、羊祜は相変わらず徳政を敷き、民草の心を掴んでいました。
羊祜は呉の民や将が逃げて来ればこれをあたたかく迎え入れ、襲ってきた敵将を斬ってしまえばその遺体を丁寧に送り返すなどのことをしていたため、呉でも「羊公」と慕われるように。
そして羊祜の慈愛の心は陸抗にも向けられます。陸抗が働き詰めで病みがちだという話を聞いた羊祜はなんと陸抗に薬を送ったのです。呉将たちは「毒薬では…?」と警戒しましたが、陸抗はそれを躊躇することなく飲みました。陸抗は羊祜の徳の深さをよく知っていたというわけです。
陸抗は後日羊祜に返礼の酒を贈っていますが、やはり羊祜も毒見することなく飲み干したと言います。羊祜もまた、陸抗がつまらないことをする人物ではないということをわきまえていたのですね。この両者のやりとりから「羊陸之交」という言葉も生まれています。
志半ばで死去するも
その人柄で晋でも呉でも慕われていた羊祜ですが、いつまでも呉をそのままにしておくほどお人好しだったわけではありません。呉を飲み込むべく船を作って水戦を仕掛けることを司馬炎に上奏します。ところが、重臣たちは猛反対。このために呉の討伐は叶わず、羊祜は「人生は思うままにならない。今この時がチャンスだというのに…。」と嘆いたと言います。結局羊祜は病を患ってそのまま亡くなってしまいました。彼の訃報に晋人も呉人も涙を流して悲しんだと言われています。
三国志ライターchopsticksの独り言
その徳によって人々に慕われた羊祜は、劉備に通じるものを持っていたのかもしれません。しかし、羊祜の方が立ち回るのがとても上手で色々な面で劉備よりずっと器用そうですよね。
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