西暦234年8月、蜀の丞相・諸葛亮は北伐の前線・五丈原で病を発し危篤に陥りました。三国志演義では、諸葛亮がまる一日意識を失っていた場面がありますが、目を覚ましてから自分で首都・成都の皇帝・劉禅あての表文を大至急で発送しています。
自分は重病でどうやら危ないです、という一報を入れたのだと思いますが、それって自分でやらなきゃいけないことだったのでしょうか。たっぷり一日ものあいだ意識不明だったのに、そのあいだ誰も成都に一報入れておいてくれなかったのでしょうか?
※本稿は三国志演義李卓吾本の内容に沿いながら想像を膨らませたものです。
この記事の目次
諸葛亮の病状
遠征中、過労気味で食も細くなっていた諸葛亮。魏に対して共同戦線をとっていた呉が撤兵してしまったという知らせを受けた時、嘆きのあまり昏倒し、かつて患っていた血を吐く病が再発しました。夜に星を眺めていると、自分の寿命が残りわずかであることが星にあらわれていたため、延命の祈祷を行います。
夜は祈祷、昼は軍務。吐血が止まらず、しばしば昏倒しては起きてまた続きをやるという状態。7日のあいだ祈祷の灯明が消えなければ成功ですが、6日目の晩に事故で灯明は消えてしまいます。
このとき諸葛亮は大量に吐血し、姜維と楊儀に自分の死後に関する指示をいくつか与えてから人事不省に陥りました。祈祷が失敗した夜が明け、次の日も暮れてから、諸葛亮は目を覚まし、皇帝あての表文を大至急で発送しました。いったん目を覚ましたものの、夜の間にまた何度か意識不明になっています。
常識的な判断
大量に吐血して横臥の体勢でも意識を保ち続けることが難しい状態だったということは、顔色もひどいでしょうし、冷や汗をかいていたり呼吸が苦しそうだったり、とにかく尋常じゃない様子だったはずです。ボスがそんな状態で昏睡していたら、ふつうは慌てふためいてただちに都に急報しますよね。そのとき五丈原にいた人たちは、誰一人としてそのことを考えなかったのでしょうか。
現地スタッフの心情……
もしも都に一報入れたとしたら、都からも慌てふためいて勅使がやって来るでしょう。ただの伝言係がやって来るだけならいいですが、もしそれと一緒に都から誰か偉い人がきて「みんな安心しろ!これからは俺が指揮をとる!」なんて言い出したら、前線で諸葛亮を支え続けてきたスタッフの人たちは面白くないですよね。
現場の苦労も知らない人が、ぽっとやってきて、ああせいこうせいと指図するわけです。はるか離れた成都から横やりを入れられたくない、と思うのが人情ではないでしょうか。
現地のナンバー2にとっていちばん得なこと
このとき、丞相長史として諸葛亮の事務を全面的に支えていたのは楊儀です。諸葛亮は臨終のさい、自分亡き後の撤兵の総指揮を楊儀に託していますから、現場のナンバー2は楊儀であったと考えていいでしょう。
さて、楊儀の立場から考えて、丞相危篤はどういう状況でしょうか。都に一報を入れて、都から新しいトップが来てしまえば、自分はずっとナンバー2のまま、いや、悪くすると新しいトップに干されるかもしれません。しかし、もしこのまま都に報告を入れずにそっと丞相の病状をみまもり、万が一みまかられた場合には、楊儀は丞相の棺を守って手柄顔で成都に帰還することができます。
なぜ手柄顔かというと、棺を守ることは自分が後のことを万端取り仕切りましたという意味だからです。そして今は自分が現場のトップであることをアピールできます。それが楊儀にとっていちばん得なことだったのではないでしょうか。
誰もが様子見をきめこむ
楊儀に野心があれば、ここは様子見をきめこむところです。楊儀がこういうつもりであったなら、周りにいる人たちは “なるほど君はそういうやつなんだな”と苦々しく思いながらも、ナンバー2に睨まれると面倒だからそっと口を閉ざしていたことでしょう。
もし丞相が目を覚まして、どうして早く都に一報を入れなかったのかと叱られたら、みんなで口をそろえてかわいらしく嘘泣きでもしながら「丞相のことが心配なあまり気が動転して都へ連絡することに思い至りませんでした」とでも言えばきっと許してもらえます。誰も損しません。可哀相なのは諸葛亮だけです。
一刻も早く勅使に来てもらいたい諸葛亮
諸葛亮はどういう気持ちだったでしょうか。さんざん変な夢を見たあげく金縛りにあいながらなんとか目を覚ましてみたものの体調は最悪、思わず横山光輝三国志3巻137ページの「とてもつらい」というコマが脳裏をかすめます。都に一報入れといてくれたんだろうね、と部下に聞くと、まだですという返事。思わず59巻56ページの「この報告は孔明にとってはショックだった」というコマが脳裏をかすめます。
成都に帰還できそうもない以上、せめて勅使に来てもらって言葉のやりとりでもしてからみまかるのと、それすらはたせず亡くなりましたという報告だけが都に行くのとでは、宰相人生の閉じ方としての格が全然違います。今の体調からするとそう何日ももつとは思えず、一刻も早く勅使に来てもらいたいところです。それが、まる一日誰も動いていなかったですと!今からスタートか……マジか……ガックシ。倒れた時は成都に一報入れろとまで指示するゆとりはなかったけどそんなこと当然誰かがやってくれると思っていたよ。トホホ。
かわいい部下には信頼感しかない
俺こんなになってんのになんで誰も早馬飛ばしてくんないんだよ、頼りにならない連中だな!とキレる元気もないのでぼそぼそと小言を言うと、丞相のことが心配なあまりうんぬんかんぬんという返事。
おお、おお、そうか、かわいいやつらめ。でもこれからは俺がいなくてもみんなでちゃんとやらないといけないんだぞ。頼りにしてるんだからたのむよ。心の美しい諸葛亮はこんな感じで部下を許してあげちゃうんじゃないでしょうか。諸葛亮は日頃から自分の指示通りに動いてくれる人が好きだったでしょうから、指示がない時になんにもできずにおろおろしている部下を見てもさほど腹を立てなかっただろうと思います。
劉備だったら一瞬で“楊儀アンニャロー俺がくたばるのを待っていやがったな!”って気付くでしょうけれど。諸葛亮は自分が賢いので、他人のことはみんな愚か者みたいに見えて他人にもそれぞれ企みがあるということにあまり気付かないんじゃないでしょうか。
三国志ライター よかミカンの独り言
諸葛亮が自分で発送したのは「表」(主君に奉る文書)であって、部下たちが実務レベルで一報入れるのはそれとは別にとっくにやっていたかもしれませんね。(三国志演義を読むかぎりでは皇帝は表文を受け取って初めて丞相危篤を知ったように見えますが)そもそも本稿は三国志演義の内容について書いたものなので、根も葉もない話であります。
もし正史三国志の楊儀伝をまだお読みでなかったらぜひご覧になってみて下さい。きっとご期待を裏切らないことが書いてあると思います!
※三国志演義李卓吾本のテキストは下記を参照しました。
『三国演義(新校新注本)』羅貫中 著 瀋伯俊 李燁 校注 巴蜀書社出版 1993年11月
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