彼の率いる白馬の騎馬隊は白馬義従と呼ばれる精鋭騎馬隊で袁紹や異民族達から恐れられていました。また蒼天航路や三国志演義では劉備と一緒に董卓討伐戦にも参加しています。
更に後に五虎将軍の一人として活躍する趙雲を一時期配下にしていました。このよう劉備との関係も深い公孫瓚ですが、今回は彼を紹介するわけではありません。彼の息子に光を当ててみたいと思います。一体公孫瓚の息子はどのような人だったのでしょうか。
公孫瓚の息子っていったい誰??
公孫瓚の息子って一体なんて名前なのでしょうか。公孫瓚の息子の名前を公孫続と言います。多分マイナーすぎて知っている人はほとんどいないと思いますが、一体何をした人なのでしょうか。
張燕の元に送られる公孫続
公孫瓚は袁紹との関係が悪化し、袁紹と戦うことになります。公孫瓚と袁紹との戦いは一進一退で中々決着がつきませんでした。そんな中公孫瓚は息子の公孫続を黒山賊の張燕の元へ送ります。どうして公孫瓚は息子を張燕の元へ送ったのでしょうか。それは張燕と同盟を結ぶことで袁紹を挟み撃ちにして攻撃しようと考えていたからです。張燕は公孫瓚の誘いに乗って同盟を結ぶことになります。そして公孫続は父の命令に従って張燕の元で過ごす事になるのでした。
袁紹に追い詰められた公孫瓚の秘策とは
公孫瓚は袁紹軍と激しい戦いを繰り広げていましたが、ついに本拠地の易京に追い詰めれてしまいます。しかし公孫瓚は鉄壁の防御を誇る易京を落とすことはできないと楽観してしました。公孫瓚の読み通り袁紹軍は易京を攻撃に何回も失敗してしまいますが、袁紹はめげずに何度も攻撃を仕掛けてじっくりと時間をかけて、何重にもなっている易京の防御壁を壊していくのでした。
公孫瓚は徐々に袁紹軍が城壁を壊して進んで来ることに恐怖を感じ、息子の公孫続の元へ使者を派遣することに。公孫瓚は公孫続へ「張燕と一緒に援軍を出してくれるように必死に頼み込め。援軍が来たら狼煙を上げてくれ。狼煙が上がれば我が軍と張燕軍で袁紹軍を挟み撃ちにして、ボコボコにしてやる。この策を張燕に伝えるのだ」と秘策を書いた手紙を渡して使者を派遣します。
作戦がバレて失敗に終り、残念な最後を迎える
公孫続の元に密使が届きます。公孫続は張燕を説得して軍勢を率いて出陣。公孫続は易京の近くにやってくると狼煙を上げて城内へ合図を送ります。公孫瓚はこの合図を見ると城門を開いて自慢の騎馬隊を率いて突撃していくのでした。しかしこの作戦は袁紹軍に知られており、公孫瓚の軍勢も救援に来ていた張燕の軍勢も袁紹軍の伏兵によってボコボコにされてしまうのでした。この結果、公孫瓚は易京へ意気消沈して帰り、その後、袁紹軍の総攻撃を受けて自殺してしまいます。
公孫続は張燕の軍勢と一緒にいましたが、正史三国志ではその後物語に出てこないまま消えてしまいます。もしかしたら公孫続は張燕軍が敗北した時にそのまま逃亡して、何とか逃げ延びたのかもしれません。しかし公孫続があまり三国志で活躍しないまま消えてしまい、残念で可哀想な人と言えるのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
さて公孫瓚の一族は公孫続の他にも残念な居なくなり方をしている人がいます。例えば公孫瓚の従兄弟の公孫越という人がいます。この人も非常に残念な消え方をしています。公孫越は袁術に味方するため彼の元に軍勢を率いて駐屯していました。その後袁術の陣営に属していた孫堅が袁紹陣営の周昂に陣地を取られてしまいます。袁術は袁紹の武将に激怒し、孫堅と公孫越に周昂を攻撃するように要請を出します。
二人は周昂を攻撃しますが、公孫越が討ち死にし、孫堅の軍勢も彼を打ち破ることができずに撤退してしまうのでした。他人の戦いに参加して成果を上げることができずに亡くなってしまった公孫越もかなり残念な消え方をした公孫瓚の一族といるでしょう。
参考 ちくま学芸文庫 正史三国志魏書等
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