樊城の戦いで龐徳の矢を腕に受けた関羽。しかし、矢傷にしては傷の治りが遅い…むしろ悪化しているのでは?流石に気味が悪く思った関羽は荊州に引き返します。
そこで、名医・華佗に診てもらったところ、受けたのは毒矢で、おそらくトリカブトの毒であること、骨を削って毒を取り除かなければならないことを伝えられます。関羽がその方法を尋ねると、華佗は腕を切り開かなければならないと告げます。
当時は今のような部分麻酔などありませんから、腕を切られる痛み、骨を削られる痛みをダイレクトに受けるわけです。飛び上がってしまうほどの痛みですから、華佗は関羽に家の柱に腕を固定する許可を得ようとします。しかし、関羽の答えは「否」。
仕方なく華佗はそのまま腕を切開しますが、関羽は涼しい顔で酒をあおりながら馬良と碁を打ちはじめる始末。関羽の肝の据わりっぷりに驚いた華佗は謝礼を受け取らなかったとか。関羽の有名なエピソードの1つですが、ここで唐突にあらわれる、我々にもなじみ深い「囲碁」。この「囲碁」とは、私たちがよく知るあの囲碁なのでしょうか。はたまた、全くの別物なのでしょうか。
囲碁の起源は?
囲碁は、世界三大棋類のひとつに数えられる中国発祥のボードゲームです。その起源ははっきりとはしていませんが、『論語』に囲碁に関する記述が見えるので、紹介しましょう。
『論語』陽貨篇
子曰わく、飽くまでも食らいて日を終え、心を用うる所無きは、難いかな。博奕なる者有らずや。之れを為すは猶お已(や)むに賢(まさ)れり。
孔子先生は言われた。日がな一日食べるだけ食べて過ごし、何も考えずにいるというのはまともな人間であればできないことだ。双六や囲碁があるだろう。それらの賭け事をしていた方が何もしないよりはましだ。訳するとこんなところでしょう。「博奕」の「博」は双六、「奕」が囲碁。「博奕」で賭け事という意味になります。囲碁は孔子が生きた春秋時代にはすでに一般的な遊びになっていたのですね。少なくとも春秋時代よりも古い時代に既に成立していた遊びのようですね。
今の囲碁とはどう違う?
一対一で碁盤を挟んで向かい合って座り、白と黒の碁石を碁盤の上に交互に打っていき、より広い陣地を手に入れた方が勝ち。このような囲碁の基本的なルールは春秋戦国時代から変わっていないようです。しかし、使われていた碁盤や碁石そのものには大きな変化が見られます。まず碁盤ですが、私たちが知っている一般的な碁盤は縦横19本ずつ線が引かれた19路盤と呼ばれるものです。しかし、前漢時代にまでさかのぼると、17路盤が一般的だったようです。
さらにさかのぼってみると、9路盤が使われていたとか。今でも、初心者向けに13路盤や6路盤などがあるようですが、それを加味して考えると、時代が下るにつれ、どんどん線が増えていって難易度が上がっていったようですね。そして、碁石。私たちは白と黒の丸くてなめらかな肌ざわりのいい碁石を想像しますよね。しかし、三国時代の碁石は四角かったとか。石が四角だと角が欠けたり、向きがずれるのが気になったりで少し大変そうですね。
賭博道具から兵法を学ぶ遊具へ
『論語』でも「何もしないくらいなら双六や囲碁でも売っていた方がまし」なんて言われてしまうくらい、囲碁も以前は俗っぽい遊びのうちの1つでしかありませんでした。しかし、ただの俗物でしかなかったら、囲碁世界タイトルなんていうものができるまでにはならなかったはずです。
囲碁の愛好家にはあの呉の礎を築き上げた孫策や天才軍師・諸葛亮の異母兄・諸葛瑾も名を連ねています。魏の曹操も囲碁をたしなんでいたとか。その他、囲碁を愛する人には戦上手が多かったようです。なぜ戦上手に囲碁愛好家が多かったのでしょうか?
碁石の白と黒という色の組み合わせを見てください。何かを思い浮かべませんか?そう、陰陽太極図です。太極図というのは、全世界を表すシンボルでもあります。陰陽の碁石が並ぶ碁盤というのは、さしずめ宇宙とでもいったところでしょうか。
その宇宙を中国全土に見立て、戦の場に見立て、碁の戦術を敷衍させたのが兵法なのでは?…という説も打ち立てられるほど、囲碁と兵法というものは遠いようで近い存在なのだとか。囲碁の戦術と戦の戦術との共通点に気づいた人々により、囲碁は単なる賭博遊びから、兵法を学ぶ好手と考えられるようになったのでしょう。
『三国志』の英雄たちもたしなんでいた囲碁。たまには五目並べなんかをしながら、『三国志』に思いをはせるのも一興かもしれません。
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