晩年は頭痛に悩まされ続けていた曹操。そんな曹操お抱えの名医として登場するのが華佗という人物です。華佗とは、どのような人だったのでしょう。
麻酔薬を開発!開腹手術まで行っていた!?
陳寿が著した正史『三国志』によれば、華佗は徐州で経学を修めていましたが、郷挙里選の察挙科目の1つである孝廉に推挙されたり、後漢の高官にスカウトされたりしましたが、決して出仕することはありませんでした。華佗の年齢について、当時の人々は百を超えるとしていましたが、百歳とは思えぬほど若々しい容姿をしていたと言います。
華佗は経学を修めていながら、当時は道家に位置づけられていた医学に精通していました。その最も大きな功績としてしばしば語られるのが、「麻沸散」という麻酔薬を開発したこと。華佗はこの麻酔薬を使って開腹手術まで行ったとか。この「麻沸散」、記録では調合の際に薬草として曼荼羅華が用いられたということしかわかっていない謎の麻酔薬です。
しかし、この謎の麻酔薬を元に、江戸時代の日本の外科医・華岡青洲が世界初の全身麻酔薬「通仙散」を調合することに成功しています。華佗の「麻沸散」が無かったら、今日の私たちは安心して全身麻酔手術を受けられていなかったかもしれませんね。
三国時代の医者の社会的身分は低かった
あなたは体調を崩して病院に行ったとき、医者のことを何と呼ぶでしょうか。おそらく「先生」と呼ぶ人が多いでしょう。他にも、医者のことを「お医者さん」「お医者様」なんて呼びますよね。医者と言えば、社会的身分が保証されている立派な職業だと考える人がほとんどでしょう。人の命を救うというその能力は、誰が見ても素晴らしいものです。
しかし、三国時代の医者の身分というものはそれほど高くありませんでした。儒学思想がもてはやされていた当時、道家の妙な術を扱う医者は人々に評価されにくい存在でした。曹操も華佗に頼りきりであったにもかかわらず、儒学者ではないという理由だけで礼を尽くしませんでした。そのことに不満を抱いた華佗は、医術の書を取りに帰ると言って故郷に戻り、戻った矢先に妻が病気になったと嘘をついて長い休みを取りました。
ところが、その嘘はあっけなく曹操にあばかれ、華佗は拷問を受けて殺されてしまいます。さらに惜しいことに、華佗の叡智が収斂された唯一無二の医術書も、託そうとした牢番に断られたために自ら焼き捨ててしまったのです。
後に冷静になった曹操は、唯一頭痛をおさめられた名医を殺してしまったことや、華佗を殺したことによって治療がはかどらず、最も愛していた曹沖を夭逝させてしまったことを後悔し続けたそうです。
『三国志演義』での華佗
『三国志演義』でも、華佗の名医ぶりは健在でした。樊城での戦いで矢傷を負った関羽は、傷の治りが悪いことを訝しがり、休養をとります。そこで現れるのが名医・華佗。華佗は関羽に腕の切開し、骨を削って毒を取り除かなければならないと伝え、関羽の右腕を柱に縛り付けようとします。
しかし、関羽はそれを断り、拘束なしで麻酔なしの手術に挑み、手術の間は顔色一つ変えずに馬良と碁を打ちつづけました。その豪胆さに驚いた華佗は、謝礼を受け取らずに去っていきました。そして、回を重ねて華佗が次に登場したのは曹操のもと。
曹操は神木を切り倒したことによって受けた呪いにより、頭痛に悩まされるようになります。あまりの頭痛のひどさに酷く参っていた曹操は、名医・華佗を呼び寄せます。華佗は曹操の具合を診て、その頭痛に効く薬がないこと、麻酔をほどこして開頭手術をすれば治せることを告げます。しかし、頭を開いてさらに頭蓋骨を切るなど恐ろしくてできないと怒った曹操は拒否。
すると華佗は、「関羽だって麻酔なしで腕の骨を削る手術をやりきったのだから」となぐさめようとしますが、これがかえって火に油を注ぐことになってしまい、怒り狂った曹操は華佗を拷問にかけて殺してしまいました。
華佗の死後、中国の医学は
華佗の死後、西洋医学が中国に持ち込まれるまで、外科手術が行われたという記録はありません。やはり、一見すると親から授かった体を傷つける外科手術は、儒教を尊んだ当時の人々には受け入れられなかったのでしょう。もし、華佗の医術の結晶ともいえる書が残っていたら、誰か弟子がいたならば、中国の医学、いえ、世界中の医学の歴史は今とは全く異なるものになっていたことでしょう。
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