三国志では、例え数百の小部隊でも、何十万を率いる大元帥でも、独立勢力や反乱をおこすのではない限り、2つのアイテムを得る事なしに、軍隊を出動させる事は出来ませんでした。では、軍隊を動かす2つのアイテムとは一体何なのでしょうか?
今回は三国志の基本、軍隊を動かす2つのアイテムについて解説しましょう。
この記事の目次
軍隊を動かすのは、虎符と詔書の2つである
三国志の時代、軍隊を動かす為には、虎符(こふ)と詔書(しょうしょ)の2つのアイテムが必要でした。虎符とは、金属や竹製の虎の形をした割符の事です。この虎符は、普段は半分に割り、半分は現地の将軍が持ち、残りは帝都にあります。帝都で開戦が決定されたり、現地から軍隊の出動を要請して許可されると、保管していた残り半分の虎符が現地に移送されてきます。こうして、二つの虎符がぴったり合わさるのが軍隊を動かしていい証明でした。
かつては、この虎符だけで、軍隊を動かす事が可能でしたが、虎符は偽造しようと思えば出来なくないので、用心の為に、もう一つ、玉璽を押印した皇帝の詔書も必要になりました。軍隊を動かす時には、虎符と詔書の2つのアイテムが必要になったのです。
韓信から大将軍の印綬を取り上げて命令した用心深い劉邦
虎符と詔書がいかに大きな権限があったかを物語る逸話があります。三国志の時代を遡る事400年前、楚の項羽(こうう)と漢の劉邦(りゅうほう)が激闘していた頃、負け続けの劉邦と違い、韓信(かんしん)は連戦連勝して、二十万の大軍を擁していました。この頃、韓信の身分は、斉王兼漢の大元帥で、軍隊を自由に動かせるように、虎符を一対、さらに大元帥の印綬も持っておりイケイケ状態でした。大元帥の印綬は漢においては自由に手持ちの軍を動かせる象徴であり、三国志の時代の玉璽と同じような存在でした。
そこに、劉邦が無一文で転がり込むのですから、劉邦は韓信が命令を聞かなくなる事を心配し夜中に韓信の幕舎に忍び込んで、大元帥の印綬を盗みだし、翌日、偉そうな顔をして堂々と韓信と会見したのです。もちろん、盗み出した印綬を見せびらかしながら、、これは劉邦の抜け目の無さをあらわす逸話ですが、同時に虎符と印綬を将軍が握っている事が、例え君主であっても、厄介な状態である事も示唆しています。
詔書を得れずにクーデターに失敗した王淩
虎符は何とかなっても、さすがに皇帝の玉璽が必要な詔書は困難でした。三国志の時代には、詔書を手に入れられず失敗したケースがあります。西暦251年、魏の大尉、都督(ととく)楊州諸軍事(ようしゅうしょぐんじ)の王淩(おうりょう)は、魏の皇帝を操る重臣の司馬懿(しばい)を排除し、幼帝の曹芳(そうほう)を年長の王族、曹彪(そうひょう)と替える事を目論みます。
かくして、クーデターを起こそうと、呉軍が楊州へ進攻しようとしていると偽り兵を厳戒態勢にし、曹芳に対して、詔書を出してくれるように要請しました。これで、詔書が下りれば、呉ではなく洛陽に攻め込むつもりでしたが司馬懿は王淩の動きに胡散臭いものを感じ、詔書を許可させず、逆に軍を率いて、王淩を捕えに向かっています。
王淩は数十万の大軍を擁していながら、とうとう一兵も動かせず、ついに司馬懿に捕えられる事になってしまいます。このように、魏の末期には、詔書無しには、やぶれかぶれの反乱以外は、クーデターの方法が無くなってしまっていたのです。
孫権も曹丕から、虎符と左竹使符を受けていた
西暦220年、曹丕(そうひ)から呉王に封じられた孫権(そんけん)は曹丕から、魏帝国の軍隊司令官として、金虎符(きんこふ)の第一から第五さらに左竹使符という人民を動員して使役する権限を示す割符を、一から第十まで与えられています。
もっとも、曹丕が与えた軍隊と人民は、元々、孫権が持っていた呉の人民と軍隊なんですから、孫権からすればちゃんちゃらオカしい割符だったでしょうけどね。
三国志ライターkawausoの独り言
配下の将軍を自在に動かし、同時に自分勝手をさせない為に生み出された軍隊を動かす印、虎符と詔書、この2つを揃えてのクーデターはかなり難しく結局、自暴自棄で反乱を起こして周辺から孤立し、空しく戦死・逃亡するケースが当時は多かったようです。
▼こちらもどうぞ