【真田丸】真田信繁も背水の陣を敷いた?国士無双と謳われた天才武将・韓信との共通点

2016年1月6日


 

真田丸

(画像引用元:NHK大河ドラマ『真田丸』)

 

2016年のNHK大河ドラマは真田丸に決まりました。

日本一の兵と称えられ天下人徳川家康を絶体絶命の窮地に追い込んだ名将、

真田信繁(のぶしげ:通称幸村)の生涯を追った大河ドラマです。

実はこの大河ドラマのハイライトである大阪冬の陣において信繁が

背水の陣を敷いていた可能性があるという事が分かってきました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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真田丸とは、大阪城の外郭に築かれた砦

 

大阪城は、北、東、西の三方を川や堀、湿地帯で囲まれた難攻不落の要塞です。

西暦1585年に大阪城の天守閣は完成しますが以後も周辺の工事は続きます。

しかし1598年に秀吉が死去したので、そこで工事が止まりました。

その為に南口は、防備が不完全のまま取り残されたのです。

 

その南口の不備を補う為に、信繁は東西180メートルの半円形の

砦を造り、これを真田丸と名付けたようです。

 

半円形の砦は武田流の防衛陣地の構築法で信繁が武田の戦術を

よく研究して実戦に活かしていた事が分かります。

 



最近の研究で分かった、実は存在自体が罠だった真田丸

 

このように最近までは、大阪城の機能を補うのが目的とされた真田丸ですが、

最近の研究により、実は真田丸は攻撃の為に造られた罠であるという事が

判明してきました。

「浅野文庫諸国古城之図」という大阪の陣の頃の古地図によると、

真田丸の背後は三方が崖になっている上に、前面には僅かな通路があるだけで

周囲を空堀が取り巻いている事が分かります。

つまり、真田丸は大阪城から孤立していた事になるのです。

 

 

真田丸は背水の陣を意識して、徳川勢を誘いこむ攻撃拠点だった

 

大阪城から孤立している真田丸は、徳川勢からは簡単に攻め落とせる

ものだと見えたのだと思います。

そうでなくとも、真田信繁の兄の信之は徳川方の武将ですから、

徳川勢から見ると、信繁の軍勢は豊臣家から信用されず、

捨て石の働きを任されているように思えたのではないでしょうか?

しかし、そのような真田丸の構えから、徳川勢の思惑まで、

全て真田信繁の計算の内に入っていました。

 

真田丸に立て籠る将兵は逃げられないという心理状態から

死にモノ狂いで戦う事になります。

そして、最初から徳川勢を引きつけるつもりの信繁は、

ここに大量の鉄砲隊を用意していたのです。

 

信繁を侮って殺到した徳川勢は、尽く真田丸と大阪城から放たれる

鉄砲の餌食になり1万人という大量の死傷者を出し小さな真田丸

一つ取れずに敗走してしまったのです。

 

 

元祖背水の陣、井陘(せいけい)の戦い

韓信

 

大阪冬の陣を遡る事、1800年、紀元前204年の事。

元祖の背水の陣が楚漢戦争の最中の中国で行われました。

漢軍の大元帥として各地を転戦していた韓信(かんしん)ですが

元は大兵力であったものの本隊の劉邦(りゅうほう)に兵を送ったりして

大軍を維持するのが難しく3万の兵力で20万の兵力を持つ

趙の陳余(ちんよ)と戦わないといけない状況に陥ります。

 

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韓信、スパイを飛ばして、趙の状況を探る

 

 

韓信は無理な戦いはしない慎重な人物でした。

彼が多用したのは、大量のスパイを放って行う情報収集です。

実は、韓信には心配が一つあります、趙には井陘口という馬車が二台

並んでも通れない狭い場所があり、ここを韓信軍が通過している最中に

趙軍に前後から挟撃されると厄介な事になるという事でした。

 

実際に陳余の配下の将軍である李左車(りさしゃ)という人物が、

「井陘口に兵を配置して、韓信がやってきたら、両方から挟み撃ちにし

全滅させましょう」と進言していたのです。

 

 

陳余は面子にこだわり進言を却下する

韓信 将軍

 

しかし、陳余は、趙が大軍であり漢軍が少数である事を問題にします。

 

陳余「我が軍は大軍で漢軍は少数だ、下手な小細工をしては、趙は少数の

漢軍を恐れて、小細工したと天下に笑われよう」と意見を退けるのです。

 

韓信「ふっふっふ・・陳余の馬鹿め!これで窮地は脱したわい」

 

韓信は大笑いして、安心し、そろそろと井陘口を通過してしまうのです。

 

韓信、河を背にして20万の趙軍を迎え撃つ

 

 

韓信は、3万の兵力から、2千人を抽出すると、趙軍の背後に回り、

隙を見て城を乗っ取り、趙の旗を捨てて漢の赤旗を立てよと指示します。

そして、兵に簡単な食事を取らせてから、将軍を集めて言いました。

 

韓信「さあ、今日で趙を撃ち破ろう、それから皆で弁当を食べようぜ」

 

しかし、将軍達は、20万という大軍を前に怖じ気づき、誰も、

韓信の言葉をまともには受け止めませんでした。

韓信、兵法のタブーを侵し、河を背後に布陣する

 

 

さらに、将軍達は韓信の命令に目を丸くしました。

何と、河を背後に陣地を造り城壁を築くように命令したのです。

兵法書には「背水陳爲絶地」とあり、水を背にして陣を敷くと、

全滅すると書いてあるのです。

 

韓信「まあまあ、怒るな、ワシに任せておきたまえ・・」

 

将軍達が真っ青になって「釈迦に説法とは存じますが・・」と反対しても、

韓信は笑うばかりで取りあいません。

 

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陳余、背水の陣を見て韓信を侮る

 

 

 

陳余は偵察の兵から、韓信が河を背にして陣を敷いたと聞くと失笑します。

 

韓信 股くぐり

 

陳余「ふん、韓信は兵法の天才と言うが、とんでもないデマだ、、

河を背にして陣を敷かぬというのは、兵法の鉄則、、それが分からないなら

あやつは、昔の股くぐりの韓信のまま、見かけ倒しよ」

 

陳余は完全に韓信を侮り、城に殆ど守備兵を残さず、全軍を持って、

韓信軍、3万人に殺到しました。

 

韓信、兵法書を逆読み 「投之無所往 諸劌之勇也」

 

 

韓信は部隊に突撃命令を出しますが、少し戦うと退却を命じます。

それを見た趙軍は漢軍を河に落して全滅させようと更に深入りします。

ところが、後がない漢兵は、必死の形相になり、多数の趙兵に立ち向かいます。

 

陳余は何時間経過しても、漢軍が全滅せず、逆に自軍の兵が押されている事を

不快に思い、一度退却の命令を出しました。

 

しかし、背後を振り返った陳余は驚愕します。

自軍の旗が一つもなく、代わりに漢の赤旗が城に翻っていたからです。

 

陳余「なんだ?一体、何が起きたのだ!!」

 

趙兵は、既に城を漢軍に抑えられて動揺、さらに漢兵が背後から

趙軍に襲いかかると、挟み撃ちを恐れて次々に逃亡を開始します。

 

こうして、半日もしない間に、20万を誇った趙は壊滅しました。

 

呆然としたのは、韓信の部下も同じでした、ある将軍が韓信に、

「どうして、兵法の鉄則を無視したのに勝てたのでしょう?」

と尋ねると、韓信は大笑いしました。

 

韓信「君達は兵法を読みこむのが足りない、兵法書には逃げ場のない所に

追い込まれると兵は死にモノ狂いで戦い、専諸(せんしょ)や曹劌(そうさつ)の

ような勇者になると書いてあるじゃないか?私は、それを実践したに過ぎないんだよ」

 

将軍達は韓信の底知れない知謀に冷や汗をかくのみだったようです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

信繁と韓信の間には、1800年の時間差がありますが、

まず、自軍を死地に追い込んで兵の戦闘意欲を高め、

その次に敵を油断させ攻めかかってくるようにするという手法は共通しています。

そして、その中で相手の思考を読み、その反応パターンを考え抜いて、

相手を罠に嵌める鮮やかさは、軍神と呼ぶに相応しいものですね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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