三国志前半のターニングポイント、赤壁の戦い、この戦いにおいての手柄は、ほとんど呉の手柄と言っても過言ではありません。しかし、そんな事言っても劉備(りゅうび)も少しは頑張ったんじゃないの?
ちょっと孫権(そんけん)が欲張りすぎてない?そんな蜀びいきの人もいるでしょう。ですが、残念ながら本当です、赤壁の手柄は99%呉のモノなのです。これから、劉備はちっとも頑張っていない証拠を提示します。
この記事の目次
赤壁で頑張っていたのは周瑜
赤壁の戦いは、複雑に陣営が入り組んでいてわかりにくのですが、まずは、正史三国志の呉、周瑜(しゅうゆ)伝から赤壁の部分を抜き出します。劉備の動向は、赤字で記しますので、面倒な人はそこだけ読んで下さい。
周瑜の部将の黄蓋(こうがい)が言うには、「今、曹賊は多く我が軍は少なく、持久する事は困難です。見たところ曹操軍の船艦は首と尾を連環しており、焼いて破れましょう」
こうして、蒙衝・闘艦の数十隻を取り出し、船に薪を満載して魚の油をたっぷりと注ぎ、見えないように幔幕で覆って隠し牙門旗(大将旗)を翻し曹操に降伏する旨を告げた。 降伏の時、あらかじめ、小船に人員を乗せて、それぞれ大船の後に繋ぎ前進した。曹操軍の将兵は首を延ばして、それを見物し「黄蓋が降る」と騒いだ黄蓋は、タイミングを見計らい諸々の船を放ち、時を同じくして火を放った。
火は、またたくまに風に煽られて、岸の曹操軍の陣営まで延焼した。やがて、煙炎は天にみなぎり逃げようとして河に飛び込み、溺死した人馬は数知れず
曹操軍はかくて敗退し逃げて南郡に籠城した、劉備は周瑜らと、また共に追った。曹操(そうそう)は曹仁(そうじん)らを留めて江陵城を守らせ、自身はまっすぐ北に還った。劉備、少し出てきました、船を焼かれて大敗して逃げる曹操を周瑜と共に追ったという記述です。
周瑜、程普、甘寧 曹仁と激戦 その時劉備は?
曹操は曹仁を江陵に残して防衛を命じていますから、ここで周瑜と程普(ていふ)、それに甘寧(かんねい)は激戦を繰り広げる事になります。以下、再び、周瑜伝から抜き出します。
周瑜は程普と南郡に進み、曹仁と大江を隔てて対峙した。兵が一戦を交える前に、周瑜は即座に甘寧を派遣して夷陵に拠らせた。曹仁はそれを見て、歩騎を分けて別動隊に甘寧を攻囲させた。
甘寧は周瑜に急を告げたので、周瑜は呂蒙(りょもう)の計を用いて淩統(りょうとう)を留めて後背を守らせ、自ら呂蒙と遡上して甘寧を救出した。甘寧は包囲が解かれた後、渡江して北岸に駐屯して期日を定めて敵を破った。
周瑜は親しく騎乗して敵陣を潰していたが、流れ矢が脇腹に命中した。矢には毒が塗られており、とても戦いを継続できず自陣に引き返した。曹仁は周瑜が負傷して立てないと見ると兵を率いて周瑜軍を攻撃した。周瑜は、これを見ると起き上がり、陣営を回って元気な所を見せ将兵は防戦したので、曹仁はこれによって敗走した。孫権は周瑜を偏将軍として南郡太守に命じた。長沙の下雋、漢昌、劉陽、州陵を食邑として江陵に駐屯した。
劉備は左将軍・領荊州牧として公安にて治めた。
周瑜が負傷するなど、呉にとってかなり激しい戦いですが、劉備が出てくるのは最後の部分だけです。
劉備は何をしていたのか?呉録で動向を見る
周瑜や程普が曹仁と激闘をしていた頃、劉備は何をしていたのでしょうか?
実は、周瑜伝が引く呉録に以下の記述があります。江陵の攻略戦が始まる前に劉備が周瑜に言った。
「へっへっへ、旦那、江陵城は城中に食糧が多く疾害とするに充分だ。ウチの張飛に千人を率いさせて旦那に従わせますから、旦那は二千人を分けて私に与えてくだせぇ・・互いに漢水より入って曹仁の後を断ちましょう。そうすりゃ曹仁は、我々が入ったと聞き必ず敗走しますぜ」周瑜は提言を容れ、二千人を劉備に与えた。こうしてみると、劉備は、千人の兵をつけ呉軍に張飛を派遣したようです。
同時に張飛(ちょうひ)を質草にして二千人の兵を借りています。漢水を渡ってうんぬんというのは、別動隊を率いて回り込み、曹仁の退路を断てば、恐れて城を捨て敗走するという意味でしょう。
周瑜が重傷である事に乗じた曹仁は呉を攻めて大敗し、そのまま江陵に戻らず樊城まで退却しているので、或いは、退路を断たれるのを恐れたのかも知れませんが、特に張飛の活躍があったわけではないようです。結果として、劉備は二千の兵を借りパクし、その後、張飛も無傷で戻り公安に駐屯するわけです
せびる劉備、出す孫権
こうして、兵力を借りパクした劉備は、江夏の劉琦(りゅうき)が死んだのを契機に自称、荊州牧となり、じわじわと拠点を築いていきます。正史三国志、先主伝に引く、江表伝には図々しい劉備の要求が出てきます。
周瑜は南郡太守となり、南岸の地を分かち劉備に給付した。劉備は別に油江口に営を立て、改名して公安とした。劉表の将兵や官吏で曹操にに従わされていた者の多くが叛いて逃げてきて劉備に投じた。劉備は周瑜からの給付地が少なく、民を安んずるのに不足だとし孫権より荊州の数郡を借りた。
つまり、劉備が公安に落ち着くと、曹操に不満を持つ将兵や官吏が続々と脱走して人口が膨れ上がり、周瑜から借りた土地では不足なので「もっと頂戴」と催促しているわけです。
この頃から、周瑜は劉備を疑いだして、孫権に挨拶に来た所を囲い張飛や関羽(かんう)から遠ざけて、美女や美食、美酒で堕落させてしまえと進言しかし、孫権は、失敗すると劉備を制御できなくなるとして、周瑜の提案を却下しました。
孫権は、劉備を厚遇して、ちょうど劉表が劉備を新野や樊城において曹操の南下を阻止したように、衛星として使うつもりだったのです。だからこそ、劉備が勝手に荊州を出て、益州を攻略した時は、「もう傭兵契約は終わりだろ?南郡を返せ!」という流れになって行ったのです。
劉備が戦ったらしい記述は金旋討伐だけ?
では、劉備が赤壁前後でめぼしい戦いをした事はないのでしょうか?
一応、蜀書、先主伝には、以下のような記述があります。
先主は上表して劉琦を荊州刺史とし、又た南のかた四郡を征伐した。武陵太守、金旋(きんせん)、長沙太守、韓玄(かんげん)、桂陽太守、趙範(ちょうはん)、零陵太守、劉度(りゅうど)は皆、降伏した。これだけ見ると、さぞかし華々しい激闘があったように見えますが、先主伝を補う、三輔決録には、以下のようにあります。金旋は字は元機(げんき)、京兆の人である。黄門郎、漢陽太守を歴任し、徴されて議郎に拝され、中郎将に遷って武陵太守を拝命した。劉備に攻められて死んだ。
ー以下略ー
こちらの荊州四太守は、土着の太守ではなく、曹操が荊州を平定してから派遣された人々のようです。そうなると赤壁で曹操が大敗した辺りで、完全に孤立化し劉琦を荊州刺史とした官軍、劉備の前に続々降伏したのでしょう。ただ、金旋だけは、多少気骨があり、劉備の降伏命令に応じず戦いその為に攻め込まれて戦死したと考えられます。
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三国志ライターkawausoの独り言
史実の南郡攻略戦は、この劉琦を劉表の後継者扱いした錦の御旗として行われたようです。土着の支配者である劉表の嫡男の威光を背負う劉備に、曹操に任命されたばかりの荊州四太守は、まず抵抗できず、金旋を除いては無条件降伏したのでしょう。
こうして、考えると劉備は、赤壁から南郡攻略まで、大半は呉軍にくっついて様子を見ていただけで、史料から戦いを確認できるのは、武陵攻略戦くらいしかないのです。赤壁の勝利は99%呉の手柄は、残念ながら本当です。
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