蜀(しょく)を建国した劉備(りゅうび)。三国志演義(さんごくしえんぎ)の劉備は各地を流浪していた時代、仁の人と言われるほど人気があったにも関わらず、名士と呼ばれる優秀な家臣がほとんどいない状態でした。
なぜ仁の人と言われた劉備には家臣が増えなかったのでしょうか。その原因は義兄弟のあの二人がいたからかもしれません。
この記事の目次
劉備の元に家臣が集まらなかったのはなんで
劉備は劉表(りゅうひょう)の領土・荊州(けいしゅう)で、諸葛孔明(しょかつこうめい)を仲間にした事で、一気に領土を拡大し、人材を増やしていくことになります。しかし劉備は荊州にやってくる前はほとんど家臣の数を増やせませんでした。なぜ劉備は家臣の数を増やすことができなかったのでしょうか。
義兄弟の絆が強すぎたから
劉備には関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)と言う二人の義兄弟がいました。三国志を知っている方なら誰でも知っていることでしょう。
この三人の絆はかなり固く正史三国志蜀書劉備伝には
「劉備は、関羽と張飛と一緒に同じベッドに寝るほどで本当の兄弟以上の恩愛をかけていた」と記されております。このような三人の絆を見て劉備の家臣となろうと考えていた人々は、三人の間に介入するのが困難な事を知って去ってしまうほどでした。
名士と劉備達とは住んでいる環境が違いすぎる
上記で劉備・関羽・張飛の三人の絆の強さをご紹介しました。ここでは当時の名士と名士外の人間関係がいかに違うかを示すエピソードをご紹介しましょう。
ある時劉備の義兄弟・張飛は名士として有名な劉巴(りゅうは)を訪れます。しかし劉巴は張飛が家に来てももてなさず、ほとんど話すことをしませんでした。張飛は劉巴のこの態度に激怒して、家に帰っていきます。諸葛亮はこの話を聞いて劉巴へ「張飛はあなたの事を慕っていたのです。もう少しなんとかならなかったのですか」と質問を投げかけます。
だが劉巴は「私達は英雄と交際するべきであり、どうして兵隊(張飛)と交際しなければならないんだ」と激怒して言い返します。上記のエピソードから名士と張飛や劉備・関羽らと社会階層が違う事が、分かると思います。しかし劉備は社会階層を異にする名士達を受け入れないような事をしないで、家臣に加えておりました。
劉備の配下に加わった人々とは
劉備は名士達と社会階層を異にしながら名士と呼ばれる人々を拒むことをしないで、家臣に組み込んでいる時期がありました。その時期とは劉備が徐州(じょしゅう)を拠点にしている時です。
劉備は徐州を拠点としている時、徐州の名士・陳登(ちんとう)や頴川(えいせん)の名士・陳羣(ちんぐん)を家臣に加えていました。しかし彼ら名士達は劉備が徐州を放棄した時に劉備から離れていきます。なぜ離れたのでしょうか。
義兄弟の仲が良すぎて進言を聞いてくれなかったから
劉備は名士達を徐州時代に家臣に加えておりましたが、徐州を放棄した時に劉備の元から去ってしまいます。その理由は一体何なのでしょうか。それは劉備が名士達の意見を聞いてくれなかったからです。また名士達も自らの進言を聞いてくれない劉備に魅力がなかったことも、原因といえるでしょう。
三国志ライター黒田レンの独り言
このように劉備は荊州で諸葛亮を仲間にするまではほとんど名士と呼ばれる人達を家臣に加えることができませんでした。しかし諸葛亮を加えてから劉備は今まで同じようなやり方をするのではなく、名士と呼ばれる人々の進言をしっかりと聞いて行くことになります。もし劉備が徐州時代から名士達の進言を聞いていれば、かなり違った三国志を見ることができたかもしれませんね。
参考 SB新書 三国志その後の真実 渡邉義浩・仙石知子著
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