三国志の時代「鬼神の如き強さ」や「鬼神の如き働き」と呼ばれる呂布(りょふ)という人物がいました。彼は本当にものすごい強さで敵兵をバッタバッタと打ち倒して行きます。
日本の戦国時代にも「鬼」と呼ばれる武将が各地でちらほら出てきます。今回は武田家にいた「鬼」こと武田四名臣のひとりである鬼美濃(おにみの)馬場信春(ばばのぶはる)をご紹介したいと思います。
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初陣で敵将を討ち取る
馬場信春は当初武川衆と言われる部隊の一員として武田家に参加。彼は信玄が当主となってから行われた信濃攻略戦で初陣を飾ることになり、この初陣で敵将を討ち取る剛勇ぶりを見せます。そしてその後も戦に参加して活躍していくことになり、侍大将へ出世を果たすと共に家老衆に名を連ねることになります。この時与えられた兵数は山県昌景より少なく120騎ほどでした。
武田家の大戦にすべて参加して活躍
信春は信玄から軍勢を与えられると信濃攻略戦を皮切りに多くの戦に参加しております特に信玄の生涯のうちで行われた大戦には必ず参加しており、有名な大戦だけでも上杉軍との激闘を行った川中島の戦い。
この川中島の戦いで信春は武田軍別働隊の総大将として軍勢を率いて戦いに参加しております。また今川家の領土である駿河(するが)へ侵攻した際の戦や北条軍との決戦である薩田峠(さつたとうげ)の戦いなど多くの戦いに参加して活躍しております。
鬼の誕生
信玄は多くの戦で活躍している馬場信春をある日呼びつけます。信春は緊張した面持ちで信玄の前に参上。信玄は信春がやってくると「我が武田家の重鎮であった原虎胤(はらとらたね)が隠居していることは知っているだろう。彼は現役時代鬼美濃と呼ばれて他国でも大いに恐れられた武将である。信春よお前もいくつもの戦で活躍しているが虎胤のような武将を目指すために、特別に美濃守(みののかみ)を名乗ることを許すゆえ精進せよ」と言われます。信玄の一声によって武田家臣では珍しく官職名を名乗ることをゆすされ、他国の大名から鬼美濃としてその戦上手を恐れられることになります。
壮絶な最後
鬼美濃こと馬場信春は大いに活躍してその名を高め、鬼美濃の名は他国の武将や大名から恐れられる存在になっていきます。
武田信玄が西上作戦の途中で亡くなると、当主に若い勝頼(かつより)が就任。彼は父を信玄を超えるために領土拡張政策を無理に行っていき、主に徳川家の三河(みかわ)や遠江(とおとうみ)方面に幾度も出陣。この時信春も従軍しており、どの戦でも戦功を上げておりました。
勝頼に領土を奪われ続けていた徳川家は同盟していた織田家へ援軍を要請。織田信長は武田家に大打撃を与えるため、長篠の地へ向かいます。兵数で劣勢であった勝頼ですが、武田の強さを信じて徳川・織田連合軍を叩き潰そうと考えて長篠の地で決戦を行おうと考えます。しかし重臣であった信春は決戦をやめるように勝頼に訴えます。
だが勝頼は信春の意見を採用しないで長篠へ向かいます。この戦いの結末は武田軍の大敗北で終了することになります。信春は若き当主勝頼を甲斐へ逃すために数10騎の軍勢を率いて殿として一番最後に撤退を開始。
追撃してくる徳川軍や織田軍と壮絶な戦を展開して勝頼が逃げる時間を稼ぎます。しかしたった数10騎では追撃してくる大軍に勝てるわけなく、鬼美濃と言われた馬場信春は討ち死にしてしまいます。彼が殿としていなければ勝頼は甲斐に戻ることができなかったかもしれません。
戦国史ライター黒田廉の独り言
馬場信春は生涯で多くの戦に参加しており、戦に参加した回数はなんと70回以上にのぼり、この大小含めた70回の戦の中で一度もかすり傷を負わなかったそうです。鬼と呼ばれた人物がどれほどすごいかお分かりになるであろうと思います。三国志の武将達にも引けを取らない馬場信春をご紹介しました。
参考文献 武田信玄 吉田龍司著など