当時、武勇・忠義においては当代一と言われ、
蜀建国時には五虎将軍の筆頭に選ばれるほどでした。
また曹操にその才能を愛されている武将でしたが、
劉備軍の中で意外と一人ぼっちの時期が長い武将でもありました。
今回は関雲長のぼっち履歴をご紹介したいと思います。
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ぼっち履歴その1:徐州で劉備とはぐれ曹操の客将に
劉備は徐州を曹操に取り戻してもらった後曹操に叛旗を翻します。
劉備と張飛は小沛(しょうはい)城で曹操軍を食い止めるべく進駐。
関羽は下邳(かひ)城を劉備から守るように支持されます。
その後曹操軍の攻撃を受けた小沛城は陥落。
劉備と張飛の行方はわからなくなってしまいます。
関羽は小沛城落城を知ると下邳城で曹操軍を迎え撃とうと試みますが、
捕虜になってしまい劉備と張飛と別行動になってしまいます。
曹操は関羽を好きになってしまい彼を自らの軍に参加させるために将軍の位を与えて優遇。
しかし関羽は曹操の配下になることを潔しとせずにおりました。
ぼっち履歴その2:顔良を討ち取ってから去る
関羽は曹操から優遇されることになります。
その後袁紹と曹操の二大勢力の大決戦が勃発。
初戦である白馬の戦いで曹操軍は袁紹軍の二枚看板の内の一人である顔良(がんりょう)軍に
苦戦することになります。
関羽は曹操に「今までの恩を返すべく、顔良を討ち取ってきます」と述べた後、
馬にまたがって顔良目掛けて走り去っていきます。
その後関羽は顔良を討ち取ります。
袁紹軍は顔良が討ち取られたことにより指揮系統が混乱している所を
曹操軍の猛攻を受けて敗北してしまいます。
関羽は顔良を討ち取った事で曹操への恩に報いたと考え、
曹操に別れの手紙を残して去っていきます。
ぼっち履歴その3:荊州でボッチ
関羽はその後袁紹軍に身を寄せていた劉備と合流。
赤壁の戦いで孫呉と連合した劉備軍は荊州の南を制圧。
その後劉備は関羽に荊州を任せて、益州の主である劉璋(りゅうしょう)を降伏させ、
漢中を占領していた曹操軍を追い出すことに成功します。
こうして蜀を建国することに成功した劉備ですが、
その間関羽は劉備・張飛とはバラバラになり、
一人ぼっちで荊州の留守番をすることになります。
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ぼっち履歴その4:最後もボッチ
関羽は自ら鍛え抜いた荊州兵を率いて曹仁(そうじん)が守っている荊州の要衝である
樊城(はんじょう)へ攻撃を仕掛けます。
樊城攻撃当初は関羽軍の優勢だったのですが、
ある事件をきっかけに押され気味になってしまいます。
それは孫呉の裏切りです。
劉備軍との同盟を破棄した孫呉の軍勢に荊州の背後を突かれてしまいます。
この結果、兵糧等の補給を受けることができなくなった関羽軍は樊城から撤退することになります。
その後関羽軍の兵士はみるみる減少していき、
孫呉軍の攻撃を受けた関羽軍は敗北し、関羽も処断されてしまいます。
最後の最後も義兄弟の二人と交わることなく残念な最後を迎えてしまう関羽でした。
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三国志ライター黒田レンの独り言
関羽は義兄弟の劉備と張飛から厚い信頼を得ていたことが、
ボッチの時期を長くしていたと考えられます。
もし張飛が関羽と同じ立場であればこのようなことにならず、
劉備と関羽も色々と心配していたのではないのでしょうか。
また関羽ではなく張飛が荊州の留守番とさせていたらどうなっていたのでしょうか。
劉備と関羽は張飛を心配して、優秀な智謀の士や将軍を数名つけて守らせていたでしょう。
すると張飛が守っていれば、
もしかしたら荊州を失わずにすんだ可能性があったかもしれませんね。
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