後漢の名家出身の袁術(えんじゅつ)。
董卓から「二袁氏を殺せば天下を取ることもできる」と
言われた実力を袁術と袁紹は持っておりました。
しかし袁紹も袁術も共に滅ぼされてしまい、
袁術に関しては群雄割拠の時代の中期頃に退場してしまいます。
なぜ袁術は董卓から高評価を受けていたのにも関わらず滅亡してしまったのでしょうか。
今回は袁術が滅亡してしまった原因をご紹介します。
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この記事の目次
袁術が滅亡した原因その1:名士勢力の取り込みに失敗したこと
袁術は本拠を光武帝・劉秀(りゅうしゅう)の本拠地であった南陽郡(なんようぐん)で挙兵。
彼は南陽で力を蓄えて荊州(けいしゅう)や徐州(じょしゅう)へ睨みを効かせていきます。
そんな中彼は名門の名声を使って、
各地の土地の実力者である名士を取り込むために呼びかけていきます。
まず幼い頃からお友達であった徐州の陳珪(ちんけい)へ「俺のところに来ないか」と誘います。
また三公の位に就いていた張歆(ちょうきん)を父に持つ張承(ちょうしょう)・張範(ちょうはん)兄弟。
さらに後年「鶏肋(けいろく)」の諺(ことわざ)を歴史に残した楊修(ようしゅう)を息子に持つ
弘農(こうのう)の名家である楊彪(ようひょう)など各地の名士に「俺のところに来ないか」と
使者を出していました。
しかし袁術が後漢王朝(ごかんおうちょう)に代わって皇帝になろうとする野望を持っていることを
袁術から声をかけられた名士達が気づくとみんなして「あんたに仕えないし」と
言って断られてしまいます。
そのため袁術は名士からの協力を得ることができずに地盤が固まらなかったため、
本拠を転々とすることになり、戦で負けて敗北して勢力を立て直すことなく滅亡してしまうのです。
袁術が滅亡した原因その2:皇帝僭称で天下の群雄達から嫌われる
袁術が滅亡した原因その2として皇帝を僭称(せんしょう)したことが原因です。
彼は後漢王朝の皇帝を無視して自ら皇帝として名乗り上げてしまいます。
そのため各地の群雄は袁術のやり方に批判的になり討伐対象になってしまいます。
曹操軍の猛攻を受けてしまい領土であった南陽から逃げていくことになります。
また徐州を占領していた呂布(りょふ)の軍勢に敗北したりと
一度も敗勢から勢力を挽回することができずに淮南(わいなん)地方からも
逃亡しなくてはいけなくなってしまいます。
彼が頼ったのは従兄弟でさんざん馬鹿にしていた袁紹。
袁紹が領有している河北へ向けて逃亡を開始することになるのですが、
途中で部下に裏切られて最後は「はちみつ飲みてぇぇぇ~」と喚いて亡くなってしまいます。
袁術が滅亡した原因その3:贅沢のしすぎ
袁術は曹操軍に敗北して南陽郡を追われてから淮南(わいなん)地方へ逃亡して、
本拠地をこの地に移すことになります。
その後彼は調子づいて皇帝の位を僭称することになります。
この時、皇帝となった袁術は豪華な皇帝即位式を行い近隣の美女を集めて後宮を作ります。
また豪華な食べ物を食べて酒を飲んでいるような有様でした。
そのため袁術の本拠地である淮南地方の経済力はすぐに底を着いてしまいます。
その結果、袁術配下の武将達は彼を見捨てて逃亡していったり、
彼を裏切って曹操や孫策などの群雄に味方したりしてしまい、
袁術は勢力を保つことが出来くなってしまうのです。
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三国志ライター黒田レンの独り言
上記の理由が原因で袁術は自らの勢力を保つことができなくなり滅亡してしまうのです。
彼が滅んだ原因は他にも細かいところを挙げていけばいっぱい出てきますので、
上記のどれか一つを改善しても自らの勢力を保ち続けるのは難しいかもしれません。
しかし袁術が勢力を保つことができる最良の方法は従兄弟である袁紹と協力して、
各地の群雄達を討伐していくことができていれば、
かなり違った群雄割拠の時代を見せていたことでしょう。
参考文献 中公新書 三国志 渡邉義浩著など
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