楊彪(ようひょう)は袁術の義弟なのになぜ董卓に殺されなかったのか?

2017年4月18日


 

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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく

「ろひもと理穂の三国志四世太尉」のコーナーです。

 

 

三国志を読んでいると、「なぜだろう?」という疑問はいろいろと生まれてきますよね。

その一つに楊彪(ようひょう)がなぜ殺されなかったのか。があります。

楊彪・・・誰だっけ?何か聞いてことがあるような気がする。

という皆さまはなかなかの三国志通ですね。

ああ、あの楊脩(楊修)の父親ね、って即答できるひとは三国志マニアです。

楊彪は西暦142年生まれです。曹操や孫堅が西暦155年の生まれですから、13歳も年上になります。

亡くなったのは西暦225年のこと。

 

 

孫堅、曹操はおろか劉備もすでにこの世を去っています。

84歳までこの三国志の時代を生き抜いた長命な方です。

今回は楊彪について語っていきましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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四世太尉の楊家

 

簡単に「四世太尉」と言っても実現しようと思ったらとても大変なことです。

四代に渡って三公の位に就くということになります。

日本で考えたら曾祖父がもと内閣総理大臣で、

祖父ももと内閣総理大臣で、父ももと内閣総理大臣で、僕も内閣総理大臣です。

っていうのに匹敵します。

まさに名門中の名門と言えるでしょう。エリート中のエリートです。

楊彪の場合は、曾祖父の楊震、祖父の楊秉、父の楊賜と三公の位に就いています。

楊彪もやはり優秀で、西暦189年に司空、同年に司徒、西暦194年に太尉と三公すべてに就任しました。

この四代をして「四世太尉」とか「四世三公」と称されます。

ちなみに楊彪を司空に任命したのはあの「董卓」です。

 



四世三公の袁家

 

同格の名門に汝南の袁家があります。

こちらも四代に渡り三公の位に就いた名門です。

ちなみに先ほど紹介した楊彪の父・楊賜と袁術の父・袁逢は共に霊帝の頃の三国老でした

(時期はずれているようですが)最も影響力のあった政治家だったわけです。

ここで両家の政略結婚が行われます。楊賜の子・楊彪と袁逢の娘の婚姻です。

袁逢の娘ということは袁術の妹です。こうして楊彪と袁術は義理の兄弟となるのです。

 

袁家虐殺

 

その後、朝廷を董卓が私物化します。反抗したのは袁紹や袁術でした。

国に戻って兵を挙げます。怒った董卓は都にいる袁家を虐殺するのです。

そこには三公になっている袁隗(袁逢の弟)や袁逢の長子で家督を継いでいた袁基などがいました。

袁家は三族皆殺しになっています。二十名以上の袁家一門が処刑されて都から袁家の姿は消えました。

その後、宙に浮いた袁家の家督を巡って袁紹と袁術が争うことになります。

袁家が虐殺されていくなかで、袁術の義弟の楊彪はどんな処分を受けたのでしょうか。

 

 

答えは意外なのですが、先ほどお伝えした通りに三公に任ぜられているのです。

両家の扱いはもの凄い開きがありますね。一方は処刑、一方は昇進です。

なぜでしょうか。

 

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名士を完全に無視できなかった董卓

 

あの暴虐の・董卓ですら名士の扱いには慎重だったのです。

天下を統べるためには彼らの強い後押しが必要だと考えたのだと思います。

董卓は暴力だけでなく、清流派の官僚をコントールすることで朝廷を我が物としたのです。

そこで利用価値の高かった楊彪は生かされたのでしょう。

長安への強硬遷都のときも楊彪は徹底的に反対していますが、

罷免されただけで命まではとられていません。

あの董卓に逆らってもまだ健在な官僚がいたとは驚きですね。

それだけ楊彪は名士たちのリーダー的存在だったということでしょう。

これは董卓が革命で死んだ後も続きます。

長安の都を押さえた董卓の残党・李傕は楊彪を太尉に任命するのです。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

長命な楊彪はその後、曹操の世になっても生き続けます。

漢が滅び、魏の曹丕の時代になっても曹丕は楊彪を三公に任命しようとしています。

まさに名士たちの代表、それが楊彪だったのですね。

しかしなぜ「五世太尉」は実現しなかったのでしょうか。

それは次回にお伝えしたいと思います。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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