始皇帝・政。
キングダムでは秦王政として活躍している人物ですが、
彼は天下統一した時にある街の名前が気に食わなくて変更した事実を知っていましたか。
今回は三国志の孫権にも関係してくる始皇帝の嫉妬によって街の前が変化してしまった事実を
ご紹介したいと思います。
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金陵の誕生
春秋時代、越には一人の天才軍師がおりました。
その名を范蠡(はんれい)と言いい、越王・勾践(こうせん)の右腕として活躍した人物です。
彼は勾践と共に呉を滅ぼした後、楚軍が越に侵攻してきてもいいように、
ある土地に要塞を建築します。
その土地は南京雨花台(なんきんうかだい)と言われる所に建築し、
越軍の防衛陣地として范蠡や勾践死後も活躍することになります。
しかし楚軍の大規模な攻撃によって越が滅亡することになると、
越を滅亡させた当時の楚王はこの地に金を埋めて街を構築します。
そしてこの土地の名前も金を埋めたことに由来して金陵という街の名前に変更します。
「天子の気が立ち上っている」ため・・・・
その後金陵は長らく楚の街として栄えておりましたが、
春秋時代が終わり、戦国時代の末期になると秦が一強状態になって他の国々を圧倒していきます。
そして政が秦王として登場した時、他の諸侯はすべて秦軍によって討伐され、
秦が中華一統を行い天下から戦が無くなることになります。
この時秦王政は皇帝の名前を称することになり、始皇帝と呼ばれるようになります。
彼は様々な政策を行っていきますが、たまに息抜きとして趣味の旅行を行います。
始皇帝が東方へ旅行へ行った際、楚の領土であった金陵を通過したときのことです。
ある占い師が「ここには天子の気が立ち上っている」と占いの結果を始皇帝へ告げます。
始皇帝はこの結果に怒り狂い、金陵の地名を秣陵(まつりょう)と変更させ、
ここの土地をぶっ壊してしまいます。
こうしてすっきりした始皇帝は首都・咸陽へ帰還することになります。
「業を建てる」by孫権
始皇帝のせいで金陵から名前を強制的に変更させられてしまった秣陵。
名前も貧相な感じになってしまうのですが、三国時代になってこの名前が変更されます。
この秣陵ですが、三国志の時代になると呉の孫権が支配する地域になります。
そして孫権が魏・蜀に習って皇帝を尊称した時にこの秣陵近辺に石頭城(せきとうじょう)を
築城します。
そしてこの石頭城近辺に大きな宮殿を立てて皇帝らしい華々しい首都建設を行っていきます。
そんな中、孫権はあることに気づきます。
それはこの土地が秣陵という貧相な名前であることにです。
孫権はこの貧相な土地の名前を変更する為、色々な案を考えていきます。
こうしてかなりの時間を使って考え抜いた結果、この秣陵の土地を建業(けんぎょう)という地名に
名前を変更することに決めます。
戦国史ライター黒田廉の独り言
始皇帝が金陵の名前を変更することになった「天子の気」とは一体何を指していたのでしょうか。
始皇帝死後、農民一揆が各所で頻発することになるのですが、
その中でも最大の物は陳勝・呉広の乱です。
この反乱によって秦帝国は滅亡する前にまで追い詰められることになるのですが、
陳勝は王を名乗り、皇帝までは名乗っていません。
また江南で反乱を起こした項羽も西楚覇王(せいそはおう)として劉邦と天下を争いますが、
彼も皇帝の名前を語ることをしませんでした。
では「天子の気」は占い師の勘違いだったのでしょうか。
レンはこの占い師の占いはあたっていたと考えます。
項羽の叔父である項梁(こうりょう)は大義名分を自らの勢力に身につけさせるため、
楚王の子孫である懐王(かいおう)を盟主として据えます。
その後項梁は討ち死にしてしまいますが、
懐王は秦の首都・咸陽を劉邦軍か陥落させた後、義帝として皇帝の位を名乗っております。
彼が占い師が指した「天子の気」に該当するとレンは考えますが、
皆様はどのように考えますか。
参考文献 はじめての南京 江南の帝都「ナンキン」へ 「アジア城市案内」製作委員会著など
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