広告

小さい曹操が持っていた巨大な戦車についての考察

2017年4月16日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

ちっちゃな英雄曹操(そうそう)、しかし、スケールの大きな彼は

「大きい事は良い事だ」とばかりに、なかなかスケールの大きいモノを保有していました。

それは、一輌で騎兵1万騎に匹敵すると言われた巨大重戦車だったのです。

実際に存在した巨大戦車、どのような姿だったのでしょう。

今回のはじさんは、曹操が持っていた巨大戦車について解説します。

 

関連記事:三国志の英雄たちの詩を調べたら司馬懿ヒドすぎワロタwww

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



戦車は前漢時代に廃れたんじゃなかったの?

 

中国の歴史に詳しい人なら、疑問に思うかもしれません。

 

「中国では、春秋戦国の頃までの戦いでは戦車戦が行われていたけど、

遊牧民を相手にするようになると、相手の騎馬に戦車ではついてゆけず、

結局、胡服騎射を採用して戦車は廃れたんじゃないの?」

 

はい、確かにそうですが、それは遊牧民との戦いの話であって、

平地での漢民族同士の戦いでは、依然歩兵が主力でしたから、

突破力がある戦車は、まだまだ使えたようなのです。

 

※春秋戦国時代の偉人】武霊王はなぜ胡服騎射を導入したの?

【春秋戦国時代の偉人】武霊王はなぜ胡服騎射を導入したの?

    春秋戦国時代の・趙・・韓・秦・・楚の国々は偉人と言われた人物を輩出しております。 武将で名を上げればキリないですが、燕は名将楽毅(がくき)を輩出。 趙の代表的な人物で ...

 

曹操の魏武註孫子によると三国志の時代にも戦車はあった!

 

曹操が孫子兵法書に注釈を加えて、余分な部分を省いて十三編にまとめた事は

よく知られていますが、この中で曹操は三国志の時代の軍隊の編成についても述べ、

戦車には軽戦車と重戦車の2種類があると言っています。

 

そして、軽戦車は馬4頭で引き1000両で一部隊として数える。

軽戦車一部隊には、歩兵を三万人配置するようにして戦車一両に

騎兵10人をつける割合で配置すると言っています。

 

どうやら、戦車に騎兵をつける事で、小回りの利かない戦車の欠点を補っているようです。

やはり、三国志の時代でも戦車は存在していたみたいですね。

 

関連記事:曹操って孫子の兵法書を編集した人だけど兵法を使って戦ったことあるの?

関連記事:【孟徳新書】曹操の兵法書は敵の手に渡らなかったの?

 

牛で引く、見張り台付きの重戦車もあった!

 

さらに曹操は、重戦車(装甲車)についても言及しています。

重戦車は、1台に炊事係2名、衣装係、1名、馬の番人が2名、

これら非戦闘員5名に戦闘員の歩兵が10名の15名で動かす。

軍鼓や階閣を乗せた場合には、馬では引けないので牛を使用するが、

その場合には、馬の番人2名は不用なので、13名で動かす事になる。

 

これは、凄い、馬では重すぎるので牛で動かす重戦車、

一体、戦場では、どんな働きをしたのでしょうか?

 

実際の戦力というよりこけおどしの意味が強い重戦車

 

実際に、こんな重戦車が戦場で活躍したのでしょうか?

しかし、周辺に歩兵10名を配置している事から考えると、

敵に接近されると逃げられなさそうで、お手上げな感じがします。

 

同時に、衣装係という兵士が奇妙ですが、これは指揮官に、

奇怪な仮面や衣装を着せて、高い所で太鼓を鳴らしながら味方の士気を鼓舞し、

敵の士気を下げる役割を担っていたか、そうでないなら完全な司令塔として

高い位置から、戦争全体を把握する役割を持っていたのではないか?

そのように想像してしまいます。

 

関連記事:司馬懿は大軍を率いていながら孔明にビビって逃走したってほんと?

 

重戦車の大きさは、どの程度だったのか?

 

残念ながら、重戦車は、牛で引かせたとあるだけで牛を何頭必要としたか?

馬を何頭必要としたか?については記述がありません。

では、ありますが、軍鼓を置く櫓や、階閣を設置したという事を考えると

地上、10メートル位でないと置く意味があまりないでしょう。

 

非戦闘員も最大で5名乗り組むのですから、移動スペースも相当必要です。

雰囲気としては、動く小さな砦という感じだったのではないでしょうか?

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

魏武註孫子には出現する重戦車ですが、残念ながら正史三国志には、

重戦車が活躍したという記述はありません。

ですが、合理主義者の曹操が意味も無い重戦車について記述を残すとは

思えないので、存在していたのは事実ではないかと思うのです。

実際に重戦車が動くシーンはどんな様子だったのか?

興味は尽きませんね。

 

 

 

関連記事:これはみみっちい・・実は手紙をガン見していた曹操の逸話

関連記事:曹操の詩の世界を体験してみよう

 

—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-三国志の雑学
-