三国志の英雄である曹操は、13人という妻を持つ艶福家でした。もっとも、後代の皇帝には、三千人という妻を持つ人物もいましたが、それらは、平和な時代の話であり、曹操のように生涯戦争をしながら、13名の妻を愛したような人は希であると言えます。そんな曹操に恐らく最も愛され、またもっとも頼りにされたのが、曹操の妃である卞(べん)夫人、後の武宣皇后卞氏です。徐州琅邪郡開陽県(現在の山東省臨沂市)の人で、西暦160年に生まれたと伝えられていますので、曹操よりは5歳年下という事になります。
卞夫人はどんな人だったの?
卞夫人は、容姿に優れてはいたものの、生まれは貧しかったようで、現在の甘粛省にあった譙(しょう)で歌妓(かぎ)として花街か、大金持ちの家で雇われていたようです。しかし、20歳の時、青年将校だった曹操が譙を訪れた事で、卞夫人の運命は大きく変わる事になります。
卞夫人に惚れた曹操
曹操は卞夫人を見染めて、彼女を妻にしたいと思ったのです。恐らく相応な身代金を支払い、卞夫人は曹操の側室になります。そう、この頃、すでに曹操は結婚していて、卞夫人は、何名かいる側室の中の一人だったのです。西暦190年頃、卞夫人が30歳頃の事、董卓が洛陽に入って暴政を敷くと、曹操は難を逃れようとして一度、洛陽から脱出しました。
袁術がまた余計な事を言いふらす
もちろん、曹操の屋敷の人間は、そんな事情は知りません。いつまでも曹操が帰らないので不安に思っていると、袁術(えんじゅつ)がやってきて慌てた調子で言いました。
「曹操は、董卓が入ってきた混乱で殺されたようだ。悪い事は言わん、お前達も洛陽を離れた方がいい」
屋敷の人間は、袁術の言葉を真に受けて、帰る支度を始めると、卞夫人はそれを押しとどめました。
「旦那様の吉凶は、まだ分かりません!死んだなどというのは、根拠がない伝聞かも知れません。もし、今日、私達が故郷に帰り、明日、旦那様が屋敷に帰ってこられたら、私達は旦那様に合わせる顔がありますか?
もし、万が一、旦那様が死んでいた事が分かれば、その時は皆で旦那様の後を追えば済む事です」
曹操の屋敷の人々は、皆卞夫人の言葉に勇気づけられ、ついに一人も帰らず、曹操の帰宅を待ちました。曹操は、そんな卞夫人の態度を賞賛し、目を掛けて、頼りにするようになりました。
卞夫人が側室になった頃、当時の曹操の正妻は、丁(てい)夫人という女性であり、元の曹操の正妻で若くして死んだ、劉夫人の後妻として劉夫人の遺児達を養育していました。丁夫人には、子供がなく、その為に遺児達を我が子のように育てていたのでした。
丁夫人は卞夫人に対してどう思ってたのか?
そんな丁夫人は、名家の出身だったので、身分の低い、卞夫人にはかなり厳しく当たりました。そこには、卞夫人が自分と違い、子供に恵まれたという理由もあったでしょう。しかし、卞夫人は、その事にちっとも不満を漏らさず、常に控えめで、贅沢をせず、検約に努めて曹操と丁夫人に尽くしました。
卞夫人の運命が変わる
卞夫人の運命が、さらに変わったのは、西暦197年の事です。この頃、卞夫人は、37歳になっていました。その年、夫である曹操は、張繍(ちょうしゅう)という群雄を降します。そこで、曹操は、張繍の叔父である張斉の未亡人である鄒氏を見染めて、愛欲に溺れる毎日を過ごすようになります。ところが、それは叔父を尊敬していた張繍には許し難い侮辱でした。張繍は、軍師の賈詡と謀り、曹操を騙し討ちにしようと兵を挙げます。鄒氏の愛に骨抜きになっていた曹操は、計略に気づくのが遅れて、絶対絶命の窮地に陥ります。
この時、曹操の身代わりになり、敵を防いだのが、曹操の息子の曹昂(そうこう)と曹安民(そうあんみん)でした。曹操を逃がした二人は、張繍の兵の前に戦死してしまいます。実は、丁夫人が可愛がっていた劉夫人の遺児とは、曹操の身代わりになって死んだ曹昂だったのです。