呉を代表する司令官・陸遜(りくそん)。あまりでしゃばったり、威勢を誇示するようなイメージはありませんが、どのような漢(おとこ)だったのでしょうか。今回は陸遜の逸話についてお伝えしていきます。
この記事の目次
陸遜の逸話とは?その1:若くして県の産業を盛んにする
21歳で孫権の配下となった陸遜は、海昌県の屯田都尉、ならびに県政を任されることになります。民衆は長年続く干ばつに疲弊していましたが、陸遜は国の倉を開放し、食糧を与えて民衆を元気づけます。そして農耕と養蚕の技術を高めて県の生産性を向上させ、経済を活性化させます。陸遜は若くして、その卓越した政治の手腕で、まず才能の一端を発揮したのです。陸遜が赴任してきたおかげで県は復興することができました。これが政治家としての陸遜の一面です。
陸遜の逸話とは?その2:逃散した住民を兵士として募集し、反乱分子を討伐する
呉郡・会稽郡・丹陽郡では、疲弊していく村を捨てて山に逃げ込む住民が続出しました。同時に会稽郡では山越族の頭目・潘臨が官軍を撃退して一帯を支配しています。陸遜は山に隠れ住んでいる人々を私兵として雇い、それらを率いて山奥に拠点を持つ潘臨たちを討ち果たします。賊も陸遜に降伏し、陸遜の部隊に所属する兵の数が2,000人以上となりました。若くして陸遜は、知略を駆使して戦場でも活躍するほどの器であり、兵力の増強という問題も同時に克服しようとしていました。
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陸遜の逸話とは?その3:曹操と結んだ費桟を討って定威校尉となる
曹操は江東で一大勢力を築いた孫権の動きを警戒していました。そしてその後方をかく乱するために丹陽の費桟と結び、山越族の一部を扇動して反乱を起こしています。陸遜は寡兵でしたが、果敢に夜襲を仕掛けて費桟の反乱を平定しました。敵兵であってもむやみに処刑することなく、戦闘に優れた者は配下として加え、それ以外の者は民戸として国の生産性の向上に貢献させています。人口が少ないという呉の弱点を、陸遜は機会があるたびに少しでもカバーしたかったのでしょう。
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陸遜の性格はどうだったの?能力がある偉人だったの?
若い頃から民を重んじる政治を行い、軍事面では知略も駆使しながら敵を圧倒して武功をあげています。孫権は陸遜の意見や戦略にかなり信頼を寄せていたようです。若くしてどんどん出世していく陸遜ですが、経験も年齢も上の武将たちに対して臆することなくきっぱりとした姿勢で接し、ダメなものダメだとはっきり伝えています。
一方で、抜け駆けなどをした部下に対して、国の功労者であるということで戦後、その命令違反を責めることはしていません。また陸遜は、勝つための戦略を遂行する統率力と強い意志を持っています。夷陵の戦いの際には、王族の孫桓が敵軍に囲まれた際も、自らの計略が成功するまで救援を出していません。
私欲を捨て、勝つためにすべてを徹底できる点が陸遜のもっとも優れた能力なのではないでしょうか。
三国志ライターろひもとの独り言
陸遜は孫権の後継者問題に首を突っ込み、そのことで孫権に邪魔者扱いされて憤慨し亡くなっています。自宅には財産らしきものは何も残っていなかったといいます。陸遜の能力や性格を示す言葉は数多くあります。「深謀」「忍耐」「忠義」「誠実」「戦上手」「民を思う政治」などなどですね。なかには「イケメン」なんていうのもあるかもしれません。
戦場での武功、政治手腕だけでなく、孫権は蜀との外交交渉でも陸遜を柱に据えていました。劉禅や諸葛孔明の書面が孫権のもとに届くと、必ず陸遜にも確認させ助言をもとめていたようです。そのために孫権は自分の印璽を陸遜に預けていたそうです。それだけ絶大な信頼を得ていたことは確かですね。
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