呉の名将・陸遜と、お母さんのお話あれこれさて呉の陸氏と言えばやはり皆さん、思い出すのは陸遜ではないでしょうか。
夷陵の戦いで劉備を破ったはもちろん、呂蒙が関羽と対峙した際にアドバイスをしたりと、キラリキラリと輝く才能は天下に知るところ。それだけに晩年が何とも言葉に出来ませんが、今回はまあ棚に乗せておいて。今回はちょっと小話として、陸遜とその周辺の方、そして母親というテーマでお話をさせて頂きたいと思います。
この記事の目次
陸遜のオジサン、陸績の親孝行
まずは陸遜の従父、陸績のお話を少し。陸績君がまだ六歳の頃のことです。お父さんと一緒に陸績は、後の三国志を代表する皇帝の御一人、袁術様の所に行きました。
流石は名家・袁家の御一人でいらっしゃる袁術様の宮とのことですから、もてなしとしてたくさんのご馳走が出てきたことでしょう。しかしここで陸績はその一つ、みかんをこっそりと袖に隠して持ち帰ろうとしたのです。
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ハチミツ皇帝を泣かせた親孝行
袁術様は天下にも遍く目を通しているお方ですので、陸績の盗人のような振る舞いにもすぐお気付きになられました。しかしそこで怒鳴るようなことはせず、優しくどうしてそんなことをするのかお尋ねになられました。陸績は答えました。
「立派なみかんだったので、母上にも食べて頂きたいと思ったのです」
これにはいついかなる時も沈着冷静な皇帝(まだ違う)の袁術様も感動。孝行息子としてこの陸績の行動は後の世にも広く知られるようになりました。
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親孝行で有名な孟宗
さてもう一つ、別の人物のお話をしましょう。孟宗という、呉の武将がいました。彼は母親想いで有名で、逸話も多彩ですがそれはまたの機会にしましょうか。
とにかく母親想いの孝行息子でしられる孟宗、という存在がいたということを前提に置いておきましょう。そして当時は呉王こと、孫権が皇帝となっていました。その孫権の時代に、ある厳しい制約がありました。
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親孝行がしたいので呉の法律を破る孟宗
当時でも、親が死んだ時は喪に服していました。しかしこの時には「代わりの長官がやってくるまで喪に服してはならない」という制約がありました。これを違反した場合は死罪、というとんでもない重い規則だったのです。しかし母親想いの孟宗は、これを破ってしまうことになりました。自分が死罪とされても、母親の死に喪に服さずにはいられなかったのです。
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陸遜が同情し孟宗を救う
おそらく、孟宗も死罪は覚悟の上、県令の地位も剝奪覚悟の上であったと思われます。規則通り、孟宗は捕らえられました。罰条は既に「死罪」と決まっているため、このまま彼は死を待つだけの状態とされたのです。
が、それを庇ったのが陸遜です。陸遜の上奏を受け、孫権は孟宗の罪を減じることとしたので、孟宗は死刑から逃れられることになったのでした。
陸績と孟宗の親孝行の話を紹介
では、陸績。そして孟宗。両方とも母親想いのエピソードが有名です。そしてこれらの逸話は、当時の人にとって受けの良い話であったのではないかと思います。例えば三国志演義になるに至って、徐庶の母親のエピソードは有名ですね。この辺りは「曹操を罵倒する」ところが人気でもあるのでしょうけれど、同時に賢母、そして母親想いの息子、というのは英雄の一面として大衆受けする要素でもあったのではないかと思います。
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陸遜はお母さんの為にお堂を建てた
さて、そろそろ「どうして陸績と孟宗と陸遜を並べているのか」と思われるかと思いますので、陸遜とその母親のお話をほんの少し。陸績や孟宗のように、陸遜とその母親の逸話は残されておりません。ですが中国、上海に崇福道院というお堂があります。
これは元は三国時代、陸遜が母親のために建てたお堂で、陸遜祠堂とも呼ばれていたのだとか。後に改宗し、現在の状態にはなっていますが……逸話には残らなかっただけで、陸遜も陸績と同じく、母親想いの一面もあったのではないかな、とふと思いました。だからこそ孟宗の弁護もしてくれたのかな、と妄想を膨らませる筆者でしたとさ。
三国志ライター センのひとりごと
これを書いています所、筆者も母の日を迎えました。例年のことなのでちょっと花とケーキで小さくお祝いした程度ですが、ふと紹介してみたくなりました。昨今ではちょっと旅行も難しくはありますが、興味がある方はぜひ、陸遜の建てた母親のための寺、それが元となったお堂をご覧になって下さいませ。ちょっと三国時代を身近に感じれる、そんな瞬間となれば幸いです。どぼーん。
参考:二十四孝 呉書陸遜伝
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