陸遜には親孝行の話はあったの?呉の名将に隠された私生活

2023年11月18日


 

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陸遜

 

の名将・陸遜りくそんと、お母さんのお話あれこれさての陸氏と言えばやはり皆さん、思い出すのは陸遜りくそんではないでしょうか。

 

関羽を討ち取る陸遜

 

夷陵いりょうの戦いで劉備りゅうびを破ったはもちろん、呂蒙りょもう関羽かんうと対峙した際にアドバイスをしたりと、キラリキラリと輝く才能は天下に知るところ。それだけに晩年が何とも言葉に出来ませんが、今回はまあ棚に乗せておいて。今回はちょっと小話として、陸遜りくそんとその周辺の方、そして母親というテーマでお話をさせて頂きたいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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陸遜のオジサン、陸績の親孝行

陸績

 

まずは陸遜りくそんの従父、陸績りくせきのお話を少し。陸績りくせき君がまだ六歳の頃のことです。お父さんと一緒に陸績りくせきは、後の三国志さんごくしを代表する皇帝の御一人、袁術えんじゅつ様の所に行きました。

 

みかんをパクる少年陸績

流石は名家・袁家えんけの御一人でいらっしゃる袁術えんじゅつ様の宮とのことですから、もてなしとしてたくさんのご馳走が出てきたことでしょう。しかしここで陸績りくせきはその一つ、みかんをこっそりと袖に隠して持ち帰ろうとしたのです。

 

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ハチミツ皇帝を泣かせた親孝行

 

袁術えんじゅつ様は天下にも遍く目を通しているお方ですので、陸績りくせきの盗人のような振る舞いにもすぐお気付きになられました。しかしそこで怒鳴るようなことはせず、優しくどうしてそんなことをするのかお尋ねになられました。陸績りくせきは答えました。

 

「立派なみかんだったので、母上にも食べて頂きたいと思ったのです」

 

袁術

 

これにはいついかなる時も沈着冷静な皇帝(まだ違う)の袁術えんじゅつ様も感動。孝行息子としてこの陸績りくせきの行動は後の世にも広く知られるようになりました。

 

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袁術祭り

 

 

親孝行で有名な孟宗

 

さてもう一つ、別の人物のお話をしましょう。孟宗もうそうという、の武将がいました。彼は母親想いで有名で、逸話も多彩ですがそれはまたの機会にしましょうか。

 

とにかく母親想いの孝行息子でしられる孟宗もうそう、という存在がいたということを前提に置いておきましょう。そして当時はごおうこと、孫権そんけんが皇帝となっていました。その孫権そんけんの時代に、ある厳しい制約がありました。

 

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親孝行がしたいので呉の法律を破る孟宗

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

当時でも、親が死んだ時は喪に服していました。しかしこの時には「代わりの長官がやってくるまで喪に服してはならない」という制約がありました。これを違反した場合は死罪、というとんでもない重い規則だったのです。しかし母親想いの孟宗もうそうは、これを破ってしまうことになりました。自分が死罪とされても、母親の死に喪に服さずにはいられなかったのです。

 

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陸遜が同情し孟宗を救う

牢獄に入れられる賈逵(かき)

 

おそらく、孟宗もうそうも死罪は覚悟の上、県令の地位も剝奪覚悟の上であったと思われます。規則通り、孟宗もうそうは捕らえられました。罰条は既に「死罪」と決まっているため、このまま彼は死を待つだけの状態とされたのです。

 

陸遜

 

が、それを庇ったのが陸遜りくそんです。陸遜りくそんの上奏を受け、孫権そんけん孟宗もうそうの罪を減じることとしたので、孟宗もうそうは死刑から逃れられることになったのでした。

 

 

 

陸績と孟宗の親孝行の話を紹介

人質にされる徐庶の母親

 

では、陸績りくせき。そして孟宗もうそう。両方とも母親想いのエピソードが有名です。そしてこれらの逸話は、当時の人にとって受けの良い話であったのではないかと思います。例えば三国志演義さんごくしえんぎになるに至って、徐庶じょしょの母親のエピソードは有名ですね。この辺りは「曹操そうそうを罵倒する」ところが人気でもあるのでしょうけれど、同時に賢母、そして母親想いの息子、というのは英雄の一面として大衆受けする要素でもあったのではないかと思います。

 

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陸遜はお母さんの為にお堂を建てた

陸遜

 

さて、そろそろ「どうして陸績りくせき孟宗もうそう陸遜りくそんを並べているのか」と思われるかと思いますので、陸遜りくそんとその母親のお話をほんの少し。陸績りくせき孟宗もうそうのように、陸遜りくそんとその母親の逸話は残されておりません。ですが中国、上海に崇福道院というお堂があります。

 

これは元は三国時代さんごくじだい陸遜りくそんが母親のために建てたお堂で、陸遜りくそん祠堂とも呼ばれていたのだとか。後に改宗し、現在の状態にはなっていますが……逸話には残らなかっただけで、陸遜りくそん陸績りくせきと同じく、母親想いの一面もあったのではないかな、とふと思いました。だからこそ孟宗もうそうの弁護もしてくれたのかな、と妄想を膨らませる筆者でしたとさ。

 

 

三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

これを書いています所、筆者も母の日を迎えました。例年のことなのでちょっと花とケーキで小さくお祝いした程度ですが、ふと紹介してみたくなりました。昨今ではちょっと旅行も難しくはありますが、興味がある方はぜひ、陸遜りくそんの建てた母親のための寺、それが元となったお堂をご覧になって下さいませ。ちょっと三国時代さんごくじだいを身近に感じれる、そんな瞬間となれば幸いです。どぼーん。

 

参考:二十四孝にじゅうよんこう 呉書陸遜伝

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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