曹操の陵墓が発見されたというニュースは皆さんの記憶に新しいと思います。正式には「西高穴2号墓」といい、20世紀の終わり頃には「ここなんじゃないか」と比定されていました。
2007年に盗掘被害に合った事からすぐに調査をするべきとの気運が高まり、2008年より本格的な発掘調査が始まりました。
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この記事の目次
曹操の陵墓の調査結果はどうだったの?
調査の結果、陵墓の構造や副葬品の様式、石牌(副葬品の札など)に書かれた「魏」の文字の特徴、60代男性の人骨が残っていた事などなどから曹操の陵墓である可能性が非常に高くなり、2009年12月の研究討論会で中国の考古学界では正式に認められました。
後から埋めたんじゃないの?
後から埋めたんじゃないの?とお思いの方も居るかもしれませんが、考古学では土の堆積状態を非常に細かく観察します。新しく掘り返した痕跡があればすぐにわかり、そうした部分を除去してから調査を行うのです。この陵墓も副葬品上の堆積土中にある漆の劣化状況などから、新しく埋められた土ではないという事がわかりました。という事はその下の副葬品も古い時代のものとなるのです。
反対意見の声も聞いてみよう
しかし曹家一族の墓が安徽省にあることや、当時の文献の記述と位置が違うこと、死後贈られた諡号「魏王」が書かれた石牌があるのはおかしい…など、反対意見も様々あるそうです。曹操ではなく夏侯惇の墓なんじゃないか…なんて話も出ています。
まあ、諡号の表記については、一緒に発見された女性骨が改葬されたものである事や、あの規模の陵墓への埋葬までの過程を考えると、別に書かれててもいいんじゃないの?なんて考えてしまうのですが、確実に言える事は後漢~晋の時代に造られた、壮~老年期の男性のための大規模なお墓である事です。
西高穴2号墓はどのようなお墓なの?
ではこの西高穴2号墓、どのようなものであったのでしょう?
後漢時代の身分が高い人のお墓は、低い円錐状に土盛りの塚を造り、その中に石室を設けて埋葬するというのが一般的でした。皇帝の墓というともう規模が違い、前漢ですが武帝の茂陵なんて54000㎡の広さに四方に塀を設けて小山かと思うほどの塚を造って…という規模です。しかし魏や晋になると塚を伴わないようになってきます。
そして南北朝時代からまた規模の大きな高塚墳の陵墓が復活し、唐までその傾向は続く…と移り変わります。
西高穴2号墓の構成
西高穴2号墓は塚を造った痕跡はなく、平地に内部へ続く羨道(埋葬部への通路の専門用語)入口が開いているタイプでした。
羨道を下っていくと、積石の壁でいくつかの区画に分かれたエリア(前室、後室など呼びます)に着き、ここが埋葬されていた場所、墓室です。
墓室全体の面積は380㎡(単純に10m×38mと考えるとイメージ湧きやすいかも)とじゅうぶんな広さを持ちます。墓室と羨道の間には門があり、石で封鎖されていました。
日本の横穴式石室みたい
ここまで書くと、古代史が好きなかたは「日本の横穴式石室みたい」と感じるかもしれません。まさに原型なのですが、日本列島で登場するのはもっと後の時代、6世紀に入ってからですね。
曹休の墓も発見された
西高穴2号墓に続き、2010年に河南省で発見された曹休(そうきゅう)の墓も似たような造りでした。こちらは印が埋葬されていた事が決定打となりましたが、残念ながら西高穴2号墓からは見つかっていません。
何と盗掘孔は7ヶ所もあり、何度も盗掘を受けていたようです。
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曹操の骨らしき頭蓋骨が切断されていた、その理由とは
その代わりといっては何ですが、曹操の骨と思しき60代男性の骨は、本来埋葬されているであろう区画からずれた場所で発見され、頭蓋骨は切断されていました。なんでこんな状態になったのかは不明ですが、冒頭で書きました石牌が全部折られていた事からも、何者かが報復を行った痕跡なのでは…と考えられています。
そしてそこまでされる埋葬者って誰なんだろう?と想像しちゃいますよね。調査中にうっかり踏み潰したものでない事を祈ります。
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