いつまでも色褪せない魅力を持つ『三国志演義』。しかし、その物語を読み進めていくと、それまでの痛快さが感じられなくなっていきます。特に皆さんが読み進めるのが辛くなってしまうのは、蜀が北伐を始めたあたりではないでしょうか。
北伐の頃には既に劉備・関羽・張飛も亡くなっていますし、諸葛亮の智謀も通用しなくなってきます。中には、「北伐なんてしなきゃよかったのに…」なんて思っている人もいるかもしれません。今回は、蜀の北伐の目的について探っていきたいと思います。
北伐はノープランだったのでは?
数十年前、第二次世界大戦で日本はほぼ全世界を相手どって戦い、太平洋のほとんどをその手中に収めました。そこで戦争をやめて置けば、今も日本はたくさんの植民地を持っていたかもしれないと言われていますが、日本はそこで止まることをせずに、調子に乗ってアメリカに真珠湾攻撃をしかけ、返り討ちに遭ってボコボコにされてしまいました。
このとき日本軍は何を最終目的として戦っていたのかが気になるところですが、実は軍の上層部は全員、特に何も考えていなかったそうです。「とりあえず行けるとこまで行ったれ!」というノリだったわけですから、日本が負けるのは仕方のないことだったのですね。
そんな日本軍のおまぬけお粗末エピソードを聞くと、「まさか諸葛亮もなんとなく北伐したのでは…」と不安になりますが、安心してください。三国時代の蜀の北伐は、そんなノープランの無謀な挑戦ではありませんでした。
蜀が北伐を行うのは必然的なことであり、絶対にしなければならない理由があったのです。
劉備の遺志を継いだ諸葛亮
諸葛亮は三顧の礼を以て迎え入れてくれた主君・劉備の志をよく理解し、その志に応えようと尽くし続けた忠臣でした。その劉備の志とは、「漢王朝再興」です。乱世を鎮め、再び漢王朝による安定した時代を築くことが劉備の長年の夢でした。ところが、劉備は道半ばで倒れてしまいます。そして、その遺志を諸葛亮が引き継ぐことになったのです。劉備が果たせなかった夢を叶えるためには、やはり魏をそのままにしておくわけにはいきません。
まずは魏を倒し、その後は機を見て呉を倒して漢王朝を再興する。そのための足掛かりをつくるために、北伐は必要なことだったのです。
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長安を奪え!しかし…
北伐で諸葛亮が手中に収めたかったのは長安です。
長安はかつて漢王朝が興った由緒ある地でもあり、
また、魏や呉に打って出るのにもおあつらえ向きの場所でした。
そんなわけで諸葛亮は南の荊州と西の益州から攻め入って
長安を奪取するという計画を練るのですが、
その最中に関羽を失い、荊州を呉に分捕られてしまいます。
そして更に劉備が暴れて呉に攻め入り、
挙句、張飛は部下に裏切られ、
劉備も心を病んで亡くなってしまいました。
その結果、蜀の国力はますます衰えてしまいます。
こうしたアクシデントが重なったため、
当初の計画は破綻してしまったわけですが、
諸葛亮は益州の一方面からの出兵を決意。
諸葛亮のことですから、
おそらく勝算があったのでしょう。
ところが、言うことを聞かない馬謖や食料不足に悩まされ、
何度北伐に出かけても長安を手に入れることはできません。
それに対して迎え撃つ魏軍は食料の供給も安定しており、
兵の数も蜀軍よりはるかに多かったために余裕綽々。
また、蜀の地は断崖絶壁の自然の要害に守られているため守りには最適ですが、
攻めて出るには狭く不安定な道を通らなければなりません。
それでも諸葛亮は複雑な地形を活かして
戦いを有利に進めることもありましたが、
その智謀で国力の差を埋めることはできなかったようですね。
三国志ライターchopsticksの独り言
荊州が呉に奪われた時点で、
諸葛亮は北伐を中止するか延期するべきだったと考える人もいるでしょうが、
北伐を始める頃には諸葛亮も相当年を重ねていましたから、
少し焦り始めていたのかもしれません。
諸葛亮が受け継いだ劉備の遺志は
最終的に姜維にまで受け継がれていき、
諸葛亮の死後も北伐は幾度となく繰り返されましたが、
結局蜀が長安にたどり着くことは叶いませんでした。
もしも蜀が長安を手にしていたら…。
そんなことを考えずにはいられませんね。
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