世界は大まかに東洋と西洋の2つに分類されます。東洋と西洋の分類には諸説あるようですが、東洋はトルコから東のアジア全域を指し、西洋はヨーロッパや南北アメリカ、オーストラリアなどを指すと考えられることが多いようです。こうして東洋と西洋を見比べてみると、東洋には主に黄色人種が、西洋には白色人種が住んでいることがわかりますね。
東洋と西洋は人種も違えば言葉も文化も何もかもが違います。今でこそグローバル化が進んで東洋と西洋の距離は割と近いものに感じられるようになっていますが、ちょっと前まで東洋と西洋は互いに縁遠い存在だったのだろうと思っている人はけっこういるでしょう。
しかし、2つの世界は遥か昔の紀元前の時代から既に交流を持っていたようです。そして、その交流ルートとして有名なのがシルクロード。シルクロードは当時東洋世界の中心地であった長安と西洋世界の中心地であったローマをつなぐ重要なルートでした。今回は、東西世界を結ぶシルクロードの成立についてご紹介したいと思います。
前漢7代皇帝・武帝の時代にシルクロードが開通
シルクロードが開通したのは紀元前100年頃の前漢7代皇帝・武帝の時代であると考えられています。武帝は匈奴討伐に力を入れていたことで有名ですが、西域への遠征にも力を入れていたことでも知られています。
西域遠征の際に中心的人物として活躍したのは張騫という人物でした。張騫は武帝が大月氏への使者を募った際に自ら名乗りを上げ、100人ほどの使節を連れて勇んで西域に向かいました。
ところが、張騫は現在の甘粛省あたり、隴西で匈奴に捕らえられてしまいます。大月氏に行く理由を怪しまれた張騫はなんと十数年もの間拘留されてしまうことに。
匈奴による長い拘留の間、張騫は匈奴の人々の心を射止め、妻を与えられて子どもまで授かりましたが、張騫は大月氏への使者としての役割を決して忘れることがありませんでした。ある日、ようやく匈奴からの脱出に成功した張騫は数十日間西へ西へと走り続けて大宛に到着。大宛で張騫は歓迎され、大月氏への道を教えてもらってついに大月氏の王に謁見することができました。
同じく匈奴に痛い目に遭わされた者同士手を取り合って匈奴を討とうと力説した張騫。ところが、大月氏の答えはNO。なんと大月氏は匈奴に追われたことによってかえって安寧の地を手に入れたということで匈奴に対する恨みを忘れてしまっていたのでした。
ガックリと肩を落として帰路に着いた張騫はまたも匈奴に捕らえられて1年拘束されるなど泣きっ面に蜂状態。
しかし、辛い帰路の中で1つだけ嬉しい土産話を手に入れることができました。それは雲南からビルマを通ってインドまで行けるルートがあるという情報です。ようやく長安にたどり着いた張騫は武帝に例のルートを使って西域と交流を深め、匈奴と対抗するべきだと進言します。
この張騫の進言の通り西域の国々と積極的に交流を持った結果、匈奴との戦いを優位に進めることができるようになり、更には後にシルクロードと呼ばれる東西世界を結ぶルートが出来上がったのです。
念願の汗血馬をゲット
シルクロード開通にあたり、最も大きな原動力となったのは武帝の汗血馬への渇望でした。
匈奴にボコボコにされて10万以上の馬を失っていた武帝は匈奴が乗っている馬よりも更に強い馬が欲しいと常々考えていました。そこに張騫が帰ってきて「大宛に千里を走る汗血馬がいる」という報告をしたものだから武帝の目は一気に大宛に向けられます。
武帝は大宛に遠征軍を送って汗血馬を3000頭以上ゲット。喜びの余り「西極天馬歌」を作らせたと言います。
あらゆるお宝の外に様々な果実が中国へ
シルクロードは「絹の道」という意味で中国からたくさんの絹が西洋にもたらされたことに由来して付けられた呼称です。では、西洋から中国にはどのようなものがもたらされたのでしょうか。それは玻璃や瑠璃といった宝物だったり香料だったりと様々だったようです。
しかし、そういったお宝のようなものだけではなくゴマやキュウリ、ブドウやザクロなどの果物などもシルクロードを通って中国にもたらされたのだそう。私たちにとっても身近なものが漢代には既に西洋から東洋にもたらされていたのですね。
ローマからの使者が漢に!?
実は、シルクロードを通じて物だけではなく人の交流もあったのだとか。
後漢の班超は部下の甘英をローマに送り、ローマからも当時の皇帝・マルクス=アウレリウス=アントニヌスの使者が漢王朝を訪れたと言われています。ただ、甘英の方はローマにはたどり着けなかったようですけれどね。
三国志ライターchopsticksの独り言
シルクロードが開通したからこそ
漢はより豊かな国になったのでしょうね。
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