『契丹古伝』という書物があります。出版したのは中国人ではなく、浜名寛祐という日本人です。彼は日露戦争(1904年~1905年)に従軍中に、前述の写本を入手しました。
戦後、帰国した浜名氏は写本をもとに解読に20年以上の歳月を費やして大正15年(1926年)に出版しました。この書物は歴史学の面から見れば、とんでもないことが書かれています。現在で例えるのなら、『ムー』というオカルト雑誌に似ています。あれは、ユーモアがあって面白いのですけど・・・・・・
さて、今回は『契丹古伝』という不思議な書物について解説致します。
この記事の目次
「契丹古伝」とはどんな書物なの?
『契丹古伝』を筆者は手元に所持していないため、どのような書物なのか確認出来ません。だから、今回はインターネットの情報を収集しました。ネットの情報によると、2980字程度の短編だと分かりました。400字詰め原稿用紙7枚と少しです。
内容は遼(916年~1125年)の初代皇帝太祖の祖先の東大神族に関する神話です。東大神族は漢民族が中国を支配する以前からユーラシア大陸を支配していた先住民です。ユーラシア大陸にいる異民族は全て、東大神族が祖先のようです。
殷人=倭人?
『契丹古伝』には不思議な記述があります。
それは「殷は倭なり」という記述です。要するに、殷王朝の人々は現在の日本人の祖先なのです。
「な・・・・・・なんだってー!!」
・・・・・・スイマセン、『MMR マ〇ジンミステリー調査班』のネタなんて今時の人には分かりませんよね。このネタが、やりたかったのです。許してください。
ちゃんと真面目に解説致します。
騎馬民族征服王朝説
もちろん、筆者は上記の話を真面目に受け入れません。歴史学的に眉唾物です。
『契丹古伝』は現代で例えるのなら、オカルト陰謀歴史学の書籍の先駆けと言えます。しかしここで打ち切ったら終わってしまうので、敢えて受け入れたということで話を進めます。
筆者が殷人=倭人の話を読んだ時に、筆者がぴんときた学説が1つあります。
〝騎馬民族征服王朝説〟です。
江上波夫氏が提唱した学説「騎馬民族征服王朝説」
騎馬民族征服王朝説は、東京大学教授の江上波夫氏が提唱した学説です。昭和(1926年~1989年)の一時期に学会で論争になりました。江上氏の論は多岐に渡るので、ここで全てを書くことは不可能です。
だから、簡単に説明しておきます。
江上氏によると渡来人の記述や遺物、遺跡から大和朝廷は朝鮮半島を南下してきた渡来人(騎馬民族)により成立した。こんな感じが江上氏の提唱した騎馬民族征服王朝説です。
征服といっても、元寇のような武力で攻め取る形ではなく、現代の外国人の留学や就労のように日本が少しずつ受け入れた感じです。南朝鮮と殷という違いですが、国の違いを除けばそっくりです。
つまり、『契丹古伝』の殷人も南朝鮮の渡来人のように大陸から海を渡ってやって来たのだと推測されます。さて、上記の説は当時のマスコミが取り上げたので、昭和の一般社会では当たり前のように浸透していました。
実際に漫画家の手塚治虫氏も『火の鳥 黎明編』でこの説を取り入れています。
流行りものに弱い日本人
一般社会では、受け入れられた騎馬民族征服王朝説でしたが、学会ではどうでしょうか。実は大半の学者が江上氏の説に懐疑的でした。
東京外国語大学教授の岡田英弘氏も批判
日本史・中国史の学者も江上氏に対して批判しました。東京外国語大学教授の岡田英弘氏も「完全なファンタジーだ」と言っていました。なぜこのような学説は払拭されなかったのでしょうか。
岡田氏は後に著書では次のように語っていました。
「騎馬民族説が世間に熱狂的に受け入れられているあいだは、ほかの学者がいくら批判しても、まったく利きめがなかった。日本人にはモンゴルが好きな人が多くて、モンゴルに観光旅行に行っては、われわれの祖先はここから来たんですね、と言う。あれはまったくの空想なんですよと言っても、みんな、ふーんと言うだけで、まったく耳をかそうとしない。」
当時はこんな感じだったのです。流行りものに弱い日本人の悲しい性により、誤った学説を払拭出来なかったのです。なお、騎馬民族征服王朝説は現在の学会では根拠が薄いことを指摘されています。
宋代史ライター 晃の独り言
『契丹古伝』から少し逸脱しましたけど、いかがでしたか。学者の中には、騎馬民族征服王朝説に対してロマンがあって良いと賛成する学者もいました。
皆さまは現実とロマンのどちらをとりますか。
※参考
・岡田英弘『歴史とはなにか (文春新書)』
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