南宋(1127年~1279年)には複雑な政治機構を利用して頂点に上り詰めた4人の宰相がいました。
秦檜・韓侂冑・史弥遠・賈似道です。
秦檜は南宋初期の宰相です。
愛国の将軍岳飛を殺害して、金(1115年~1234年)と和議を結んだ人物として有名です。屈辱的な和議を結んだことから、後世の人から「売国奴」と呼ばれています。
史弥遠は南宋中期の宰相です。金との和議を継続するも、朱子学系の学者と対立して彼らを排斥したので後世の評判が芳しくありません。
賈似道は南宋後期の宰相です。モンゴルとの戦争で功績を挙げたり、文化財の保護にも努めました。
しかし、南宋が元(1271年~1368年)の攻撃を受けると全ての責任を負わされて殺されました。
今回筆者が紹介するのは秦檜と史弥遠の間にいた韓侂冑です。
彼はどのような人物なのでしょうか。
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名門の家に生まれる韓侂冑
韓侂冑は名門出身です。曾祖父は韓琦と言います。
北宋(960年~1127年)の第4代皇帝仁宗・第5代英宗・第6代神宗の3人の皇帝に仕えた宰相です。
父は韓誠と言いますが、科挙に合格した形跡はありません。母は南宋初代皇帝高宗の皇后呉氏の妹です。つまり韓侂冑は、皇帝と親戚関係です。
ちなみに、血筋は遠いですが秦檜とも親戚です。韓侂冑は若い時は何をしていたのかさっぱり分かりません。科挙も受けておらず親のコネで役人になっています。
昇進もトントン拍子に重ねています。下手をすれば、普通に生涯を終えていた可能性が高いです。
孝宗の死と光宗の退位
紹熙5年(1194年)に南宋第2代皇帝孝宗が亡くなりました。孝宗は亡くなる5年前に皇帝位を皇太子に譲りました。
その皇太子が第3代皇帝光宗です。ところが、孝宗と光宗父子はケンカが絶えませんでした。
結局、父子が和解することは全く無く孝宗は世を去りました。
大変なことに今度は、光宗が突発的に退位を表明しました。光宗の退位の理由は、現在も謎とされています。困ったのは家臣一同でした。
亡くなった孝宗の葬儀を行わないといけないのに、喪主の光宗が勝手に退位したので葬儀ができなくなったのです。仕方ないので、光宗の皇太子に緊急即位をしてもらうことにしました。
韓侂冑登場
しかし、皇太子に即位してもらうにも簡単には頼めません。家臣一同はまだ、存命中の高宗の皇后の呉氏に許可をもらうことにしました。
呉氏は80歳以上の高齢者ですが、頭はさえていました。
また、宮中の様々なことに影響力を持っているので何事にも彼女のお伺いが必要でした。この時に呉氏のパイプ役となったのが韓侂冑でした。
時間はかかりましたが、韓侂冑は呉氏の説得に成功して光宗の皇太子を即位させました。
これが南宋第4代皇帝寧宗です。
恩賞のもつれから・・・・・・
寧宗即位後、韓侂冑には約束されていたものがあります。
それは「節度使」の位でした。
節度使は唐(618年~907年)では軍事・政治・経済などの権限を持っていましたが、宋代では名誉職でした。だが、もらうだけでも十分です。
韓侂冑は趙汝愚という人物と約束していました。
趙汝愚は宋の一族ですが、韓侂冑のようにコネで官僚になっておらず、科挙を受けてトップで合格したエリートでした。韓侂冑は早速、約束の節度使について話し合いをしました。
「節度使?何それ、美味しいもの?」
結局、韓侂冑は無視されて帰ることになりました。
慶元党禁
筆者が調べたところ南宋の史料では趙汝愚のことを良く書くものが多く占めますが、中には中立的な目線で書く史料もあります。
どうも趙汝愚はエリート意識が強かったらしく、自分と同じエリートとは衝突のクセがあったようです。
「クセが凄い!」
すいません、千鳥のネタが言いたかっただけです。真面目にやります。韓侂冑はクセが凄い趙汝愚の欠点を利用したのです。
かつて、趙汝愚または彼の知り合いと衝突した人を集めました。
韓侂冑のもとに集まった人は、趙汝愚に対して恨みを持っていたので喜んで協力しました。趙汝愚は約半年後に中央政界から追放されて失意のうちに亡くなりました。一緒に追放された人の中に朱子学の開祖の朱熹もいました。
邪魔者を追放すると、韓侂冑やその一派は朱子学を禁止して「偽学」と名付けました。
この弾圧事件は慶元年間(1196年~1200年)に行われたので、「慶元党禁」と言います。
金との決戦と敗北
平和で暇になった韓侂冑の次の仕事は金との戦です。亡くなった孝宗の願いだった金を滅ぼすことを韓侂冑は実行することにしました。
開禧元年(1205年)に韓侂冑は特別宰相である平章軍国事に就任しました。
科挙合格もしていない人物が宰相に就任するのは異例の事態です。戦勝祈願として韓侂冑は岳飛の名誉回復を行いました。
岳飛は王の位を与えられました。
開禧2年(1206年)に南宋は金に宣戦布告しました。当時の金はモンゴルに攻められて、かつての勢いは無かったので楽に倒せると思ったのです。
ところが、南宋は壊滅的な敗北に終わりました。それどころか、四川の守備を命じていた部隊が金と内通して反乱を起こしました。
反乱はすぐに鎮圧しましたが、南宋はすぐに和議の話が持ち上がりました。金の和議の条件は韓侂冑の首を差し出すことでした。
開禧3年(1207年)に韓侂冑は拉致されて、リンチされて殺されました。
亡くなる前日、外の様子が不穏であったが逃げも隠れもせず妾と一緒に最後の夜を楽しんだとのことです。彼なりに覚悟していたようです。
韓侂冑暗殺の主犯は政敵の史弥遠でした。
暗殺後に、史弥遠は宰相となり宋代で最も長い26年に渡る長期政権を築きました。
宋代史ライター 晃の独り言
今回は韓侂冑の一生でした。長くなりましたが、いかがでしたか?
筆者が大学時代に卒業論文で取り扱った人物です。
本当は書き足りない部分もありますけど、いつかまた書きたいです。
※参考文献
・千葉熙「韓侂冑―宋代姦臣伝 その2―」『東洋史学論集―山崎先生退官記念 (1967年)』
・山内正博「南宋政権の推移」岩波講座世界歴史〈第9〉中世3 (1970年)
・衣川強「『開禧用兵』をめぐって」宋代官僚社会史研究 (汲古叢書)
・寺地遵「韓侂冑専権の成立」(『史学研究』247 2005年)
・小林晃「南宋中期における韓侂冑専権の確立過程―寧宗即位(1194年)直後の政治抗争を中心としてー」(『史学雑誌』115-8 2006年)
・奥田裕樹「南宋士大夫考―魁憸」(『歴史研究』648 2017年)
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