夷陵の戦いの時に魏延はどうしていた?その後に影響があったかもしれない爪痕

2019年4月3日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

酒を飲む曹操、劉備、孫権

 

()()(しょく)三国志(さんごくし)の国々にはそれぞれ名将たちがひしめき合っています。

 

張紘が病死したという手紙を読み涙する孫権

 

 

それも後の方になってくると戦死や病死などで姿を消していくのが悲しい限りで、特に夷陵の戦い(いりょうのたたかい)の前後は世代交代(せだいこうたい)と言わんばかりに多くの武将、特に(しょく)の武将は姿を消していきます。

 

蜀の魏延

 

その武将たちが姿を消した後も蜀を支えた武将、魏延(ぎえん)。彼が夷陵の戦い(いりょうのたたかい)の時に何をしていたのか、そして夷陵の戦いがどう魏延に影響を与えたのかを今回は話してみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



夷陵の戦いの前後、魏延はどんな位置にいた?

蜀の皇帝に即位した劉備

 

 

魏延は劉備(りゅうび)漢中(かんちゅうほう)を名乗りだした219年頃に、漢中の地を守るべく督漢中、鎮遠将軍、漢中太守として抜擢されました。

 

張飛と劉備

 

 

この責務は簡単に言えば超抜擢、殆どの人間がこの責任ある立場には劉備(りゅうび)の義兄弟である張飛(ちょうひ)が任命されるだろうと思っていたので、重臣たちは驚いたそうです。

 

 

 

魏延

 

 

これは別の言い方をすれば魏延が劉備からとても信頼されていたという証明であり、魏延自身もまた劉備に深い忠誠を誓ってこの任務を全うするように全力を注ぎます。そして漢中を任せられた魏延は夷陵の戦いには参加していません。その夷陵の戦いは魏延の立場を大きく変えることとなりました。

 

 

 



夷陵の戦いから更に役職が変わる

夷陵の戦いで負ける劉備

 

222年、夷陵の戦いが起こり、劉備は大敗北。

 

黄権

 

 

この時に当時、鎮北将軍に付いていた黄権(こうけん)は魏に下る結果となりました。この立場に次に付けられたのが魏延です。これは立場だけを見ると、更に魏延は昇進したと言えます。

 

 

亡くなる黄忠

 

 

そしてこの時、多くの武将たちが亡くなっていました。夷陵の戦いで戦死した武将たちもそうですが、そもそもその夷陵の戦いに至るまでに関羽(かんう)張飛(ちょうひ)馬超(ばちょう)黄忠(こうちゅう)と言った数々の名将たちはこの世を去っています。その中で実戦経験も多く、武勇に優れていた魏延(ぎえん)は数少ない蜀を支えていく武将であったと思います。

 

魏のマイナー武将列伝

 

 

 

間違いなく蜀の中核だった魏延

挑発する諸葛亮孔明

 

 

劉備の死後、蜀の全権は諸葛亮(しょかつりょう)に移行しましたが、それでも魏延は重用されました。

 

 

魏延と孔明

 

 

その後も魏延は()を相手に戦い、そして戦果を挙げて昇進されています。三国志演技(さんごくしえんぎ)ではやたらと諸葛亮との不和が演出されていますが、正史ではそこまで対立している訳ではないのです。

 

魏延からの提案を却下する孔明

 

 

ただ二人が対立していた件があることは、正史でも読み取ることができます。魏との戦いの中で魏延は自分が別動隊を指揮して戦うことを提案しますが、諸葛亮(しょかつりょう)はこれを許しませんでした。

 

 

不満が溜まる魏延

 

 

これは魏延にとってかなり不満であったようで「丞相の下では自分の力が振えない」と零しています。しかし対立して兵を引いたりすることもなく、その後は諸葛亮の指示に従っています。

 

 

楊儀と魏延

 

 

ここの判断は人によって解釈が違うと思います。言ってしまえば魏延は奇策、諸葛亮は正面からの真っ向勝負で魏と戦おうという判断です。もちろん魏から見れば蜀は小勢、弱い者が戦うには真っ向作戦では勝てません、奇策というのは力で劣っているからこそ行うのです。

 

 

孔明

 

 

ですから魏延がイチかバチか奇策をやろう、というのはそこまで考え無しの戦いではないのですよね。しかし諸葛亮は奇策が苦手というか、同じく軍師であった法正(ほうせい)龐統(ほうとう)まで奇策の面では優れていません。

 

 

孔明を持ち上げる魏延

 

 

間違いなく優秀な戦術家ではありましたが、その方面には特化してはいなかったのです。だからこそ諸葛亮は奇策を取り入れなかったのですが、ここには夷陵の戦いが背景にあると筆者は思います。

 

 

 

夷陵の戦いが二人の間にヒビを入れたのか?

魏延

 

 

夷陵の戦いには、魏延は出陣してはいません。

 

 

敗北する馬岱

 

 

多大なる被害を出してしまった負け戦、とは分かっていても、それを実際に体験した者とそうでない者には意識の差が出ます。対して諸葛亮もまた、夷陵の戦いには出陣してはいません。

 

 

孔明

 

 

しかし諸葛亮は劉備から留守の蜀を預かっていたので、どのような被害がどれくらい出て、戦がどう動いて、消費したものがこれほどで…と、政治家の観点から被害の大きさを窺い知ることができました。

 

孔明

 

あの大きさの敗北をもう一度でもしてしまえば、蜀はもう二度と立ち直れることはないでしょう。それが諸葛亮に安全策を取らせてしまい、そうして魏延から見ればそれは臆病な建策に見えてしまったのではないでしょうか。そしてその考えと認識違いは徐々に深いヒビとなって、後々まで尾を引いてしまうこととなるのです。

 

 

三国志ライター センの独り言

三国志ライター セン

 

 

夷陵の戦いに、魏延の名はありません。それでも、夷陵の戦いは大きく蜀の運命を、そして魏延の運命をも変えた戦いであったのではないでしょうか。

 

負けた魏延

 

 

魏延までもが夷陵の戦いで失われなかったことは、蜀にとって幸運だったことでしょう。しかし魏延から見れば、果たしてどうであったのか…それは憶測するしかない、過去に生きていた人たちにしか分からない答えだと思いました。魏延と、そして夷陵の戦いにどんな関係があったか。バタフライエフェクトを想像するのも、歴史の楽しみ方の一つではないかと思います。

 

関連記事:もしも、諸葛亮の後継者が魏延だったら三国志はどうなる?

関連記事:魏延がいれば陳倉の戦いは勝てた?それとも負けた?史実の北伐を解説

 

夷陵の戦い

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
セン

セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

-三国志の雑学
-,