キングダムのレジェンド武将王騎、当初は筋肉質のデカブツ唇お化けとして登場し不気味要員として静かな人気を得ていました。
それが、主人公信の素質を見出し飛信隊という名前と部隊を与えて信の師匠とも言える存在になってからあれよあれよという間に大人気キャラクターになったのです。
何より普段のオカマ口調からは想像もつかない、かつてフィアンセを龐煖に殺された過去や、戦場では無類の存在感を示し兵士に慕われている様子は、まさにカリスマ。
その最後のシーンでは、王騎ロスという現象まで起きました。そんな王騎は実在する将軍ですが、史実の王騎はどんな功績を残したのでしょうか?
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この記事の目次
王騎は実在する?モデルになった王齮と王齕
キングダムの登場人物には架空の人も多いですが、王騎は実在の人です。
司馬遷が編んだ史記には、王騎に比定される人物として王齮と王齕が登場します。両者は別人説もありますが、漢字の意味や発音までが似ているので、同一人物であったものが何らかの理由で別人として扱われたという説が1500年以上前の南北朝時代から存在します。
そこで、この記事でも王騎=王齮+王齕として紹介していきます。
王騎は趙攻略に尽力した実在将軍
では、実在する王騎は秦の歴史でどのような貢献をしたのでしょうか?
それは二つあり、当時、秦に対抗しうる存在だった趙を叩き長平の戦いで趙の兵卒40万を穴埋めして殺した点、もう一つは趙を攻略する重要拠点として上党を奪取しその後の王翦の鄴攻略の布石を造ったという点があります。
紀元前260年、王齕は趙を討って上党を取った。趙の反撃に対し秦では内密に白起を増援させて上将軍とし王齕をその副将とした。長平の戦いでは趙を大いに破った。
このように、王騎は上党を奪取しその後反撃に転じた趙軍に対して名将白起を総大将に王騎は副将になり長平の戦いで功績を立てているのです。
キングダムでは、趙は今でもかなり強大ですが、史実の趙は長平の敗戦でほぼボロボロになり、李牧がやや巻き返すものの再起は叶いませんでした。
史実の六国で秦に対抗できたのは、僅かに趙と楚くらいであり、その一国の趙を瀕死に追い込んだ王騎は名将だと言えるでしょう。
—熱き『キングダム』の原点がココに—
王騎実在、始皇帝にとっては鬼?邯鄲を包囲した王騎
長平の戦いで趙を壊滅に追い込んだ秦は、さらに勢いを得て紀元前258年に趙の王都である邯鄲を包囲します。しかし、趙としても邯鄲が落ちればオシマイなので頑強に抵抗しました。包囲軍の司令官の王陵は持て余し、秦は司令官を王齕に変えます。
紀元前258年王陵が趙の邯鄲を攻めて増軍もしたが、戦況が思わしくないので王齕が代わって将となる。
ところが、それでも邯鄲は落ちず、一年以上の包囲の末に諦めた王騎は、汾城郊外の秦軍と合流しました。
面白いのはこの頃、邯鄲には生まれたばかりの秦王政が人質としていた事です。当時の秦王にとって政は曾孫に当たりますが、政は百名以上いる王族の一人で幾らでも替わりがいる、殺されても惜しくない存在だったのです。
同時に王騎も自分が邯鄲を包囲した結果、人質の政が殺されても仕方ないと考えていたでしょうから、なかなか非情です。
王騎実在、転んでも無料では起きない
邯鄲を落とせなかった王騎ですが、転んでも無料では起きません。
行きがけの駄賃に魏を攻めて六千人の魏兵を斬首し、さらに二万人の魏兵が敗走して黄河に飛び込んで溺死しました。さらに王騎は、汾城を攻め落とし次には張唐と組んで寧新中を抜いています。
紀元前257年邯鄲を攻めたが落とせず汾城郊外の秦軍と合流した。その後、魏を攻め、魏兵の斬首六千、魏軍は敗走し、黄河で二万人が溺死した。汾城も攻め落とし張唐に従って寧新中を抜く。
このように王騎は経験豊かな将軍らしく、敗戦しても敗戦のままで終らない実に強かな男だったのです。
王騎実在、上党を再奪取して秦の直轄地にする
王騎の名が再度登場するのは、紀元前247年で10年後です。
この間に生涯を戦争漬けで過ごした秦の昭襄王は五十五年の在位を全うして崩御。その後を継いだ孝文王も僅か3日で崩御、秦王は始皇帝の父であった子楚が即位し荘襄王になります。
秦にとっては不安定な時期でしたが、王騎は韓の上党を攻めて陥落させそこに秦は太原郡を置いて直轄支配に入ります。上党は紀元前260年に一度、王騎が攻め獲っていますがその後色々あり韓の所有になっていたようで、ここで秦が再奪取したようです。
以後、上党が敵軍の手に渡る事はなく王翦の鄴攻めも上党が拠点になります。上党は鄴も邯鄲も近い趙の喉元に突きつけられた刃であり、秦がここを領有しているのと太行山脈を越えて軍を送るのは雲泥の差です。これは王騎が確かな戦略眼を持っていた事を意味します。
王騎実在、合従軍に遭遇し敗れる
順調にキャリアを積み重ねた王騎にピンチがやってきます。
紀元前247年、秦に攻められっぱなしだった魏に信陵君が帰還して兄王と和解。それを知った五カ国は、続々と魏に援軍を派遣しました。信陵君は、魏ばかりではなく、趙・韓・楚・燕のような諸国の軍隊も統率して何十万という大軍で秦に攻めこみます。
当時、秦は一強の横綱相撲をしていましたが五カ国が連合しては不利でした。王騎は同僚の蒙驁と合従軍を迎え撃ちますが勝てずに押しまくられて函谷関以東の全ての支配地を放棄してしまいます。
ただ、さしもの五カ国連合軍も難攻不落の函谷関を落とす事は出来ず秦を滅ぼすには至りませんでした。
王騎実在、蒙驁、麃公と共に秦王政の将軍となる
王齕の記録はここで終りますが、紀元前246年今度は王齮が史実に出現します。
紀元前246年(秦始皇元年)秦王政即位、蒙驁、麃公らと共に将軍に任じられる
このように王騎は、蒙驁、麃公という当時の有力な将軍と並んで即位したばかりの秦王政の将軍になっています。蒙驁はキングダムでは凡庸な将軍とされていますが、実際は白起に匹敵する名将で生涯に七十余りの城を落としていますし、麃公は韓を攻めて斬首3万という実績のある将軍でした。
これらの将軍と並ぶという事は、相応の実績を評価されたと言えるのではないかと思います。
秦王政から見れば、王騎は幼少期の自分を無視して邯鄲を包囲した相手ですが、やはり赫々たる戦歴があるので即位したばかりの政は、これを無視できなかったのです。この辺りは、自分に利があれば流民にもへりくだると言われた秦王政の人材登用の妙があると言えるでしょう。
王騎実在 紀元前244年王騎死ぬ
しかし、王騎のさらなる活躍はありませんでした。
紀元前244年同僚の蒙驁が韓を攻め十三城を取る王齮死没
秦王政は即位すると蒙驁や麃公を使い、信陵君に奪い返された領地を奪回しようと韓や魏を攻めて城を奪回していますが、王騎も蒙驁と共に韓を攻めて、その途中に亡くなっているようです。これが戦死や病死か、或いは寿命なのかは分かりません。
王騎としては、信陵君に奪還された領地を奪い返そうと闘志満々だったでしょうがその志半ばでの死去という事でしょう。
キングダム(春秋戦国時代ライター)kawausoの独り言
王騎は実在の人物でしたが、特に特筆すべきは白起と共に趙を攻め長平の戦いで趙に致命傷を与え、さらに上党を落として秦の直轄領にする事に執念を燃やした点です。
前述しましたが、戦国末期の六国で秦に対抗できたのは趙と楚だけでした。
その中の趙に瀕死の大打撃を与え、その喉元である上党を二度も攻め落とした事は紀元前236年に王翦が楊端和や桓騎を率いて鄴を落とす下地を造りました。
上党は秦にとって重要なベースキャンプであり、ここを抑えないと秦は咸陽から遥々太行山脈を越えて趙を攻めないとならず戦争は長引き、果たして王翦でも首尾よく鄴を落とせたか分かりません。
史実の王騎は、キングダムの王騎にも劣らない名将であったようです。
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