2020年の大河ドラマは『麒麟がくる』で、主人公は明智光秀です。
大河ドラマを通して、明智光秀に関するこれまでの定説とは異なる新しい発見が期待されています。
織田信長の家臣になってからの明智光秀については史料に残されていますが、信長の家臣になる前の明智光秀については史料に残っておらず、不明な点が多いといわれています。信長の家臣になる前の明智光秀に関する新たな史料が発見されました。
今回は琵琶湖沿いにあった田中城を籠城していた明智光秀について紹介します。田中城城主を経て坂本城城主になった経緯について取り上げます。
田中城に籠城していた明智光秀
まず、田中城の場所について紹介します。田中城は近江国にありました。現在の滋賀県高島市の安曇川沿いにあったといわれています。田中城は琵琶湖に面した交通の要所で、重要な場所でした。
次に、1565年に13代将軍足利義輝と三好義継・松永久秀の連合軍が衝突します。この事件を「永禄の変」といいます。永禄の変で、明智光秀が13代将軍足利義輝に命じられて田中城に籠城していたと書かれた史料が発見されました。
明智光秀について織田信長の家臣になる前まで不明な点が多いとされていました。斎藤道三が下剋上で倒されると、牢人生活をしていたと考えられていましたが、足利義輝に命令されて籠城していました。牢人のような身分の低い武士に交通の要所である田中城の籠城を命じることは考えられないことから、足利義輝に信頼されていて、高い身分だった可能性があります。
田中城を籠城した後、足利義輝は松永久秀に暗殺されました。後に15代将軍になる足利義昭が越前の朝倉義景のもとで身を寄せるようになり、そのことがきっかけで明智光秀は朝倉義景の家臣となりました。
田中城城主から坂本城城主へ
1570年に織田信長が朝倉義景の越前国を攻めたときに田中城に逗留したと伝えられています。この越前国に攻めたことに対して、同盟を結んでいた浅井長政が織田信長を裏切ったため、信長は退却せざるを得ない状況になりました。
その後の姉川の戦いで、織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉義景の連合軍に勝利しました。田中城は浅井長政の支配下に置かれましたが、姉川の戦いで浅井長政の勢力がなくなったことにより明智光秀が田中城の城主となりました。
1571年に織田信長は抵抗する仏教勢力を排斥するために比叡山を焼き討ちにしました。明智光秀は比叡山焼き討ちの翌年に坂本に城を築城するように織田信長に命令されました。この城は坂本城といいます。明智光秀が田中城から坂本城に異動する形で、坂本城の城主となりました。
坂本は比叡山延暦寺の門前町で、琵琶湖に面していることから交通の要所として栄えていました。坂本は京に近い場所にあることから、光秀は京都市政と丹波国の領国経営の拠点としました。
本能寺の変後、城主が何人か代わった後、浅野長政が坂本城から大津城に居城を移したことにより坂本城はなくなりました。現在は、城跡のみで明智光秀の功績を讃える銅像や石碑が残されています。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は、最初に田中城に籠城していた頃の明智光秀について取り上げました。この記事を通して、明智光秀は身分の低い武士ではなく、将軍足利義輝に信頼されていた身分の高い武士の可能性が高いことが分かりました。
この記事の後半では、田中城から坂本城の城主になる過程を取り上げました。田中城と坂本城の城主だった明智光秀について、琵琶湖沿いの交通の要所となっている城の城主になったことが分かりました。明智光秀の実力について大河ドラマを通して新しい見方ができるかもしれません。今後の研究に注目したいと思います。
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