片眼の隻眼将軍・夏侯惇。彼は曹操の挙兵当時から一緒に戦っている重鎮ですが、彼の功績の大きさは戦での武功よりも、内政などに功績があったのをご存知でしょうか。
今回は夏侯惇の功績について紹介したいと思います。
夏侯惇の功績その1:「司令官としての諸将を統率」
夏侯惇の功績その1としましては「司令官として諸将を統率」している点です。夏侯惇は、戦における才能はほとんど無いと言える位活躍していない人物です。
例えば正史三国志・夏侯惇伝によれば、曹操が遠征している際、呂布が曹操の領土・兗州を奪取。この時、兗州のほとんどの城が呂布の味方になってしまい、曹操が兗州の中で保有している城はたった三つしかありませんでした。夏侯惇が守っていた城もその三つのうちの一つです。
夏侯惇は、荀彧が守っている城を呂布軍からの攻撃から助けるために向かいますが、途中で降伏させた呂布軍の兵士達の襲撃にあって捕虜になってしまいます。夏侯惇は危うく呂布軍の兵士たちによって殺害されそうになりますが、ギリギリの所で夏侯惇の武将・韓浩の機転によって助けられることになり、事なきを得ます。
また三国志演義ですと夏侯惇は劉備軍に敗北したり、諸葛亮との戦いで何度も敗北しています。このように夏侯惇は戦での活躍はほとんどしていませんが、諸将を統率することにおいては素晴らしい能力を発揮。
夏侯惇は孫権討伐の為、曹操と一緒に出陣しますが、決着をつけることができず、撤退します。曹操は軍を撤退後、夏侯惇に張遼などの諸将を部下につけて、26軍もの大軍を授けて孫権軍の備えとして魏と孫呉の国境に駐屯させています。
このことから夏侯惇は諸将を統率する能力に長けていることが伺え、夏侯惇の功績の一つとして挙げることができるでしょう。
夏侯惇の功績その2「民政で力を発揮」
夏侯惇の功績その2は「民政で力を発揮」した事です。夏侯惇は曹操から色々な所の太守を任されることになりますが、どこの太守になってもしっかりと行政を行って、曹操から信頼されるようになります。
例えば夏侯惇は呂布を征伐戦の後、陳留と済陰と呼ばれる場所の統治を任されたことがありました。
当時陳留と済陰は干ばつがひどく、イナゴの被害も甚大でした。夏侯惇は陳留と済陰の状況を知ると、河をせき止めて堤を建築し、自ら鍬をもって田畑を耕して稲を植えたりして、民衆のために働きます。
この結果干ばつやイナゴの被害は軽減し、民衆から大いに喜ばれることになります。
曹操は夏侯惇の内政での功績を認め、河北の覇者・袁紹の本拠地鄴を陥落させた際「法令に拘束されることなく、自分の判断で物事を適宜に処理して良い」というとてつもなく大きな権限を付与されることになります。
夏侯惇はこうして曹操の家臣の中でとてつもなく大きな権限を付与されますが、おごることなく曹操の配下として活躍していくことになります。
話が少しずれましたが、夏侯トンは戦ので功績よりも内政での功績の方が大きい、珍しい将軍だったのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は夏侯惇の功績について紹介しましたが、最後に曹操が夏侯惇をどれだけ大切にしていたか紹介して終わりにしたいと思います。
曹操は挙兵当時からつき従っている夏侯惇を大切にし、彼に特別待遇の「不臣の礼」を与えようと考えます。
「不臣の礼」とは臣下として扱わないという待遇の事です。
しかし夏侯惇は曹操へ「私は特別待遇を与えられるような功績を残していない」という理由から曹操が与えようとした特別待遇を拒否。その後曹操は夏侯惇の決意が固い為、「不臣の礼」の特別待遇を授けることを諦めて、前将軍へ任命します。
他にも曹操は夏侯惇を自らの寝室へ呼んで相談したり、自分の乗っている車に乗せて話し相手にしたりと夏侯惇を重用していました。
夏侯惇と同じような待遇を持った将軍は正史三国志には記載がない事から、曹操が夏侯惇をかなり大切にしていた事と言えるでしょう。
■参考 正史三国志魏書など