彼は始め曹操に仕えて活躍し、曹操も陳宮の能力を認めていました。
しかし陳宮は突然曹操を裏切って呂布に仕えてしまいます。
どうして陳宮は曹操を裏切ったのでしょうか。
曹操に認められた智謀
曹操は反董卓連合軍が解散した後、東郡に押し寄せてきた賊軍を打ち破った事で東郡太守の地位を手に入れることに成功。こうして曹操ははじめて群雄として名乗りを上げることになります。
曹操が東郡太守になった頃、青州黄巾賊が兗州で暴れまわります。
兗州刺史・劉岱は黄巾賊を討伐するため出陣しますが、青州黄巾賊の攻撃を受けて敗北し、劉岱も黄巾賊に討ち死にしてしまいます。
兗州は青州黄巾賊に兗州刺史・劉岱が殺された為、統治する人物がいなくなってしまいました。
陳宮は劉岱が亡くなった事を聞くと「今兗州の刺史が居なくなったことで兗州をまとめる人物がいません。
殿にはこの兗州の地を治める事で覇業を行うべきです。
殿が兗州を治めるつもりなら、私が兗州の役人たちを説得して殿が兗州を治められるように説得してきます。」と曹操へ進言。
曹操は陳宮の進言を受け入れ、陳宮に兗州の役人を説得するように命令を与えます。
陳宮は曹操の命令を受けると早速兗州の役人たちを回って「董卓の軍勢に果敢に挑んだ曹操様が兗州を治めるべきだ」と説得して回ります。
この結果、兗州の役人は陳宮の説得を聞き入れて、曹操を兗州へ招き入れます。
こうして曹操は一兵も兵士を減らすことなく、兗州を統治する地位を得ることに成功します。
曹操は陳宮が兗州を手に入れることに成功した弁舌の能力などを認め、高い評価をしていました。
しかし陳宮は曹操を裏切ってしまいますが、どうしてなのでしょうか。^
陳宮が曹操を裏切った理由その1:荀彧達に嫉妬していたから
陳宮が曹操を裏切った理由その1としましては荀彧達に嫉妬していたからではないでしょうか。陳宮は劉岱亡き後の兗州を曹操に献上するため、独力で兗州に残っている役人たちを説得して回り、ついに曹操へ兗州を献上。
曹操の陳宮の功績を認めていましたが、正史三国志によれば、兗州を曹操へ献上した陳宮に対して褒賞が下されていたなどの記載がありませんでした。
そのため陳宮は自分が独力で役人を説得し、曹操へ兗州を献上したにもかかわらず、自分よりも荀彧や程昱の方が厚遇されている事に嫉妬し、曹操を裏切り呂布へ仕えたのではないのでしょうか。
陳宮が曹操を裏切った理由その2:曹操の残虐さに失望したから
陳宮が曹操を裏切った理由その2としましては曹操の残虐性に失望してしまったからではないでしょうか。どうして陳宮は曹操の残虐性を垣間見ることになったのか。
それは曹操が徐州で行った殺戮行為が原因です。
曹操は徐州の牧・陶謙に父親が殺害されてしまうと怒り狂い軍勢を率いて出陣。
曹操は徐州の牧・陶謙の領土へ攻撃を仕掛けると領土の城をいくつも攻略し、曹操軍が通過した村や城では多くの村人や城内に住んでいた民衆が殺害され、河がせき止められるほど、殺害行為を行っていたそうです。
陳宮は曹操が徐州で行った残虐行為に「曹操が覇者になったら徐州の虐殺行為のような事が頻繁に起きる世界が出現するかもしれない」と曹操に失望し、曹操を裏切ったのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
曹操は陳宮が呂布に仕えた後、彼を恨むことなく彼の才能を惜しんで、許してやろうと考えていました。
曹操は呂布を滅亡させた後、陳宮を捕まえ曹操の前にひきづり出されます。曹操は陳宮の才能を認めており、陳宮を許してやろうと考えて説得を行います。
しかし陳宮が「私を早く殺害しろ!!」と言って自ら処刑場へ向かって走り出し、処刑されてしまうのでした。
曹操は陳宮を止めることができずに泣きながら彼の後姿を見送ったそうです。このように曹操は陳宮の才能を高く評価しており、自分を裏切っても才能さえあれば、恨みを消して人材を用いる大きな度量を持った人物でした。
また陳宮は自らの才能を認め、裏切った自分の罪さえも許してくれる曹操に甘えることなく、潔く最期を迎えます。今回は曹操から高く評価された陳宮が、どうして曹操を裏切ったのかを紹介しました。
■参考 正史三国志魏書等
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