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陳宮の珍エピソード?実は主君・呂布が大嫌いだった?

2019年6月19日


 

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赤兎馬と呂布

 

呂布(りょふ)の軍師として仕えた陳宮(ちんきゅう)

 

曹操を裏切る陳宮

 

彼は曹操(そうそう)を見限って呂布に仕えますが、呂布が大嫌いでした。今回はそんな陳宮の呂布嫌いエピソードを紹介していきたいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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このバカ野郎!呂布が俺の言う事を一切聞かないからだ!!

陳宮

 

陳宮は呂布が大嫌いでした。陳宮は呂布の事が大嫌いだったことをうかがうことができるエピソードが残っているので紹介したいと思います。

 

曹操に捕らわれる高順、呂布、陳宮

 

陳宮は呂布と一緒に下邳城(かひじょう)に籠城して曹操軍と戦いますが、曹操軍へ内応した将軍の手によって捕えられてしまい、敗北してしまいます。陳宮はその後曹操の前に引きづり出されると曹操から「君は智謀を持った人なのにどうして私の前に現れているのだい。」と質問されます。

 

怒る陳宮

 

すると陳宮は呂布を指して「この馬鹿野郎がオレの言う事を一切聞かないから敗北したのだ。もしこの馬鹿野郎がオレの言う事をしっかりと聞いていれば、私がここに来ることはなかっただろう」と曹操の質問に対して答えます。自分の主君を指さして「この馬鹿野郎」なんて普通は言えないでしょう。よっぽど陳宮は呂布が嫌いだったのでしょう。

 

 

 

呂布が嫌いすぎて反乱を起こす!!

呂布と劉備

 

陳宮は呂布が嫌いすぎて反乱を計画して実行したことがあります。陳宮は呂布が劉備を徐州(じょしゅう)から追い出した後、袁術(えんじゅつ)と手を組んで呂布へ反乱をおこします。

 

郝萌(かくぼう)

 

陳宮は反乱を起こす際、呂布軍の将軍・郝萌(かくぼう)を誘って、彼に呂布を討ち取るように指示を出します。

 

反乱を起こす郝萌(かくぼう)と曹性

 

郝萌は呂布がいる徐州・下邳の政庁へ攻撃を仕掛けますが、郝萌配下の曹性が従わずに敵対した事がきっかけで呂布を逃がしてしまいます。

 

高順

 

呂布は徐州の政庁から「陥陣営」で知られる高順(こうじゅん)の陣営へ逃亡。

 

郝萌(かくぼう)と曹性をボコボコにする高順

 

呂布配下の高順は呂布を匿うと反乱を起こした郝萌を討伐し、討ち取ることに成功します。こうして陳宮の反乱は失敗に終わってしまいます。陳宮の呂布嫌いなエピソードを二つ紹介しましたが、陳宮が呂布を嫌いになったのはいつ頃からなのでしょうか。

 

陳宮が呂布を嫌いになった時期

 

陳宮は呂布が大嫌いでしたが、いつごろから嫌いだったのでしょうか。陳宮は呂布が徐州を劉備からぶん取った際、呂布に対して反乱を計画し実行。

 

袁術をからかう呂布

 

この時陳宮は袁術と手を組み、呂布の将軍・郝萌に呂布を討ち取るように指示しますが、呂布の反撃にあって反乱は失敗に終わってしまいます。このことから陳宮は呂布が徐州奪う前、すなわち陳宮が曹操に反旗を翻して兗州に呂布を迎えた時には、呂布の事が大嫌いだったと思われます。

 

ではどうして陳宮は呂布の事が嫌いだったのでしょうか。

 

 

陳宮が呂布を嫌いだった理由とは?

呂布に従う陳宮

 

陳宮が呂布を嫌いなった理由はいったい何が原因なのでしょうか。それは呂布が陳宮の献策をことごとく採用しなかった事が原因です。陳宮は兗州に呂布を向かい入れた時、色々と彼の為に献策を行います。

 

成廉、魏越、呂布

 

しかし呂布は陳宮の献策を採用することなく、自分のやりたいように行動を行っていきます。その後も陳宮は呂布へ色々と献策を行っていきますが、呂布が彼の献策を採用することをしませんでした。そのため陳宮は呂布が大嫌いになったと思われます。

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

当時天下には袁紹(えんしょう)や袁術の名門勢力や孫策(そんさく)などの新興勢力が多数乱立している状況でした。それなのにどうして陳宮は呂布の事が嫌いなのに、他の君主へ仕えなかったのでしょうか。

 

三国志ライター黒田レン

 

ここからはレンの推測になりますが、陳宮は自分が担いだ君主だから見捨てる事が出来なかったと考えます。陳宮は呂布を嫌いで顔を見るのもいやだと思っていれば、主君を変えればいいだけの話です。

 

また陳宮が呂布を嫌いであれば、下邳城籠城戦の時に献策しないでさっさと曹操へ降伏してしまえばいいのです。これらの事から陳宮は呂布が嫌いでしょうがないけど、自分が担いだ君主だから見捨てることをしなかったと思うのですが、みなさまはどのように思いますか。

 

■参考 正史三国志魏書など

 

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呂布

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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