三国志のメインディッシュともいわれる赤壁の戦い。長江流域の赤壁は現在もその面影を残し、三国志ファンが国内外から訪れる名所となっています。
では、赤壁の戦いで曹操軍と連合軍のどちらに勝利の女神がほほ笑んだのでしょうか。南下してきた曹操軍と劉備との対立から見ていきましょう。
肥大化する北の曹操軍
「隴を得て蜀を望む」とは曹操の言葉。ついに曹操は劉表の守る「荊州」の地へと踏み込みます。中国で華北といわれる淮河より北側を治めた曹操、華南の地へと進出してきます。
荊州は、その淮河より南にある長江流域の町。そこに住む人々から見れば、曹操軍は異民族同然でした。
しかし、荊州牧(市長クラス)の劉表が天に召されると後を継いだ三男・劉琮は曹操軍に白旗を上げます。さらに曹操軍は地元「荊州水軍」も吸収合併します。まさに三国時代のM&A。虎に翼です。
逃げる劉備
親戚筋の劉表が亡くなり、頼る人物がいなくなった劉備。しかし、荊州の民は劉備を見捨てませんでした。我らが荊州を北の曹操軍などに取られてたまるかと一念発起。
レジスタンスの数は10万人を越え、関羽は慌てて船を用意、水路でレジスタンス勢力を逃がします。将軍・劉備は陸路で逃げ延び、途中で曹操軍に追いつかれるものの見事に撃退。
劉備軍の軍勢は曹操軍の半分ほどにまで達しました。劉備の人徳がここに来て生きたのです。
伺う孫権
軍事力の曹操に漢王室の血筋を持つ劉備。しかし、呉の孫権は「会稽太守(県知事クラス)」というとても小さな勢力でした。そして攻めてきたのは圧倒的なパワーを誇る曹操軍。
手も足も出ないような状況で呉の軍議が開かれましたまず、張昭を含む複数の武将は曹操軍への降伏を勧めます。ところが軍師・魯粛は徹底抗戦すべきと考え、出張中の周瑜を一時的に呼び戻します。
もう一人の軍師・周瑜は「曹操軍は一枚岩ではない。勝機は我にあり」と孫権を諭し、曹操軍と戦うよう進言します。
ついに劉備・孫権同盟が成立
いくら曹操軍に地の利がないとはいえ、孫権軍のみでは倒せません。蜀の劉備軍と組み、戦うという結論に達しました。
孫権は魯粛を派遣し、劉備を説得。やがて、諸葛亮孔明が呉の孫権の元にやってくると話がまとまり、ここに「劉備・孫権連合軍」が誕生します。
孫権は手始めに逃げていた劉備を助けるため水軍をやって、救出。
このとき曹操軍の陣営では不慣れな環境のため疫病が蔓延し、多くの兵士が命を落としていました。もはや撤退しかないと考えていた曹操。
そこに黄蓋が火攻めを実行します。曹操軍の大船団は鎖でつながれていたため、火の回りは早く、瞬く間に燃え広がりました。そのため、曹操は歩いて逃げるはめになります。
水路が多い華南では船の扱いに長けた連合軍の方が有利だったのです。その後、劉備と周瑜は南郡まで曹操を追いかけ、辟易した曹操は後を部下にまかせ華北へと帰っていきました。こうして曹操軍24万の兵士は雲散霧消してしまうのです。実に儚い戦いでした。
三国志ライター 上海くじらの独り言
赤壁の戦いでの連合軍の勝因は劉備と孫権が得意な水軍を思う存分に活用したことでした。雪が多く、馬での移動が多い華北の曹操軍は水軍の扱いには不慣れでした。
さらに疫病が軍隊内部で流行し、戦う前から兵力はダウン。もはや戦どころではありません。部下に一部をまかせ、曹操はやっとの思いで華北へと去るのでした。誰しも短所を補うより長所を伸ばす方が簡単です。
学校の先生に苦手を克服しなさいと口を酸っぱくして言われても気にする必要はありません。自分の長所をオリンピック選手並みに引き上げる方が豊かになれます。
同じように連合軍は得意な水軍を使ったにすぎません。
曹操軍の敗因を挙げるならば、淮河を超えて不慣れな南へと進軍したことでしょうか。やはり、曹操は華北平定で満足すべきだったのです。そうでなければ、水軍の扱いに長けた人物をヘッドハンティングしておくべきでした。
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