今回は今川義元の人物像に注目します。今川義元といえば軟弱な公家のイメージが先行しているという印象です。実際に、大河ドラマなどでは今川義元は公家の格好をしていることが多いです。最初に、今川家と今川義元の生い立ちから話を進めます。
次に、公家のイメージが定着した要因について考えます。後半では、実際の今川義元の姿を紹介します。
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名門今川家とは?
大河ドラマなどで今川家は将軍家に次ぐ由緒ある家柄という言葉を耳にした読者がいると思います。では、今川家とはどのような家柄でしょうか。
今川家は南北朝時代から足利尊氏が室町幕府を開くまでの間に将軍家に次ぐ地位になりました。今川家には肥前国の守護となり、九州探題を務めた今川貞世(了俊)がいます。今川義元の先祖は今川了俊とは兄弟の関係で、駿河国の今川家は分家に当たります。
今川義元の生い立ち
今川義元は1519年に駿河の戦国大名今川氏親の五男として生まれました。今川氏親は分国法『今川仮名目録』を制定した人物として知られています。今川義元は五男として生まれました。
今川義元は出家していましたが、今川氏親の跡を継ぐことが決まると還俗します。出家していたときに軍学の師匠だった太原雪斎は今川義元の軍師として仕えました。甲斐の武田家と同盟を結び、三河・尾張に向けて勢力を伸ばそうとします。織田信秀との戦いに勝利すると、太原雪斎の交渉により松平元康(後の徳川家康)を人質にすることに成功しました。
1560年、京に上るために2万5千の大軍を率いて尾張国の戦国大名・織田信長を攻めます。今川義元の軍が3万に対して、織田信長の軍はわずか数千の兵士しかいませんでした。今川義元の圧勝と思われましたが、織田信長の奇襲により討ち取られました。
なぜ今川義元は公家のイメージが定着したのか?
今川義元は公家のイメージが定着しています。しかし、実際の今川義元の姿を紹介した番組では『その時歴史が動いた』などが挙げられます。しかし、ほとんどの歴史番組では実際の今川義元の姿を紹介していません。
今川家は将軍家に次ぐ地位であったことから朝廷とのパイプ役を担っていました。今川義元は朝廷と交渉するとき、お歯黒で公家の化粧をしていたと考えられます。公家の格好で朝廷と交渉していたときの記録が史料として残されていたことから公家のイメージが先行したのかもしれません。
実際の今川義元の姿とは?
今川義元の父・今川氏親の代から組織化された領国経営をしていました。この体制を寄親・寄子制といいます。今川家の家臣に知行を与え、知行地に赴任した家臣を寄親とします。知行地にいる百姓を寄子といいます。寄親は寄子である百姓を保護するとともに寄親からの命令に対して寄子は素早く行動する指揮命令系統です。
今川義元は織田信長の父・織田信秀との戦いで寄親・寄子制による組織化された戦いで、織田信秀に対して優位に戦いを進めます。小豆坂の戦いでは鉄砲による集団戦法を実践しました。結果、今川義元は三河国まで勢力を伸ばし、松平元康を人質にすることに成功します。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は今川義元の人物像について考えました。今川義元といえば公家のイメージが先行しますが、その要因として朝廷と交渉するときに公家の格好をしていたことが分かりました。
実際の戦国大名としての今川義元の姿は近年の研究で明らかになっています。代表的な事例として、寄親・寄子制という組織や鉄砲による集団戦法を織田信長よりも先に実践していたことが挙げられます。
小豆坂の戦いの戦いで今川義元に敗れた後、尾張国の大名となった若き織田信長は今川義元を手本にしたことが研究で明らかになっています。江戸幕府を開いた徳川家康も今川義元の人質だった頃に今川義元の領国経営や太原雪斎から学んだ軍学が原点になっているのかもしれません。今後、今川義元の本当の姿に迫ってみたいと思います。
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