劉備は生涯に何人も奥さんを娶っております。もちろん劉備は自分で好きになった女性と結婚しているので、結婚できてうれしかったと思うのですが、唯一喜べない結婚があったのをご存知でしょうか。
それは赤壁の戦いの時の同盟者・孫権の妹である孫尚香と結婚した時です。
どうして劉備は孫権の妹と結婚してもあんまり喜べなかったのでしょうか。
「劉備 結婚」
「劉備 孫夫人」
などのワードで検索する人にもオススメ♪
関連記事:劉備の若妻孫尚香はとんでもない爆弾娘だった理由とは?
関連記事:孫尚香ってどんな人?孔明に曹操、孫権と並び評された人物
兄に似た勇猛な妹・孫尚香
孫権の妹は正史三国志の呉書・孫権伝にも記載がなく、蜀書・劉備伝にもほとんど記載がありません。劉備の奥さんになった甘皇后や穆皇后には列伝がたてられています。
ですが、孫権の妹・孫夫人は劉備の奥さんになった事実があるにもかかわらず、正史三国志の蜀書のどの部分にも列伝が立てられていない謎の人物ですが、どのような人物だったのでしょうか。
正史三国志蜀書・法正伝に彼女の人柄についての記載がありましたので紹介したいと思います。法正伝の記載によれば「孫夫人は兄・孫策や孫権に似て才気があり、武術に優れて剛勇であった」と記されています。
この記述を見る限りですが、レンは孫権の妹に恐ろしささえ感じてしまい、絶対に結婚しません。ですが劉備は孫権の妹と結婚してしまいます。
結婚した理由は政略結婚!?
劉備は赤壁の戦いが終わった後、孫権の妹を娶ることにします。どうしてこのような女性と劉備は結婚することにしたのでしょうか。それは劉備と孫権の関係を深く親密にするためでした。
劉備と孫権は赤壁で曹操軍を打ち破るために同盟し、曹操軍に勝利を得ることに成功。ですが、赤壁の戦い後、再び曹操が大軍を率いて襲来した際、再度力を合わせて曹操軍と戦わなくてはなりません。そのため、劉備と孫権は緊密な同盟関係が必要でした。
当時手っ取り早く親密な同盟関係を築く方法は、当主の娘や妹などを相手方へ嫁がせる方法です。そのため孫権は劉備の元へ妹を嫁がせることにしたのです。劉備は孫権の妹と結婚しない方法もありましたが、もし婚姻したくない旨を相手側へ伝えてしまうと、孫権と劉備の同盟関係が破綻してしまう可能性がありました。
上記の理由から劉備は致し方なく、孫堅の妹と結婚することにしますが、最悪な結婚生活を迎えることになります。
やりたい放題する奥さん
劉備は孫権の妹を娶りますが、彼女の元へあまり行かなくなってしまいます。その理由は彼女が孫権の妹と言う特別な地位に甘んじて、劉備家の法律を一切無視してやりたい放題していたそうです。
また孫権の妹は武装した侍女を奥へ連れていた事も劉備が彼女の元へ出向かなくなった理由の一つでした。劉備は法に厳格な趙雲に奥を取りしきる役目を与え、孫権の妹の矯正を試みますが、彼女の性格を矯正する前に大きな事件が勃発します。
劉禅誘拐事件
劉備は益州を攻略するため、龐統や魏延らと一緒に出陣。劉備の奥さんである孫権の妹は孫権が派遣した使節団と一緒に呉へ帰還するため、劉備の元を去っていきます。この時、劉備の息子である劉禅が失踪。奥を任されていた趙雲と張飛は呉へ帰る孫夫人を追跡し、何とか劉禅を取り戻すことに成功します。
このように孫権の妹は劉備と結婚した当初から劉備の元を去っていくまで劉備を困らせることばかりした最悪な女性でした。レンは劉備がこのような女性と喜んで結婚したと思えませんが、皆様はどのように思いますか。
三国志ライター黒田レンの独り言
正史三国志の劉備と孫権の妹は最悪な別れ方をしますが、三国志演義ですと全く違った描かれ方をしています。
劉備と孫権の妹は仲良く結婚生活を送っており、劉備が夷陵の戦いで亡くなったと知った(誤報)孫権の妹は、劉備の後を追って長江へ飛び込んで入水自殺したそうです。このことから三国志演義では劉備と孫権の妹は結婚後もそれなりに仲の良かった夫婦生活を送っていた事がうかがえます。
ついでに孫権の妹は「孫尚香」の名前で知られますが、この名前は京劇などで使われる名前で、正史三国志には彼女の名前は記載されていません。
また三国志演義では「孫仁」と言う名前で描かれているそうです。
■参考文献 正史三国志蜀書など
関連記事:劉備の若妻孫尚香はとんでもない爆弾娘だった理由とは?
関連記事:史実の趙雲を考察!脚色されてる理由が頷けるほど蜀への貢献度の高さ