三国志演義における天才軍師、諸葛孔明。しかし社会的な成功とは裏腹に彼には後継ぎが中々授からない状態が続いていました。おりしも劉備が皇帝に即位して、股肱の臣の子女が宮廷に引き上げられて閨閥が形成されていく中で、丞相である諸葛亮だけは子供がないという状態は不都合でした。
そこで、諸葛亮が兄である諸葛瑾から迎え入れたのが諸葛瑾の次男である諸葛喬です。
才能高い兄と趣味人の弟の間に生まれた諸葛喬
諸葛喬は西暦203年、諸葛瑾の次男として生を受けました。
兄は後には呉の国政を牛耳る才気あふれる人物である諸葛恪、弟には伸びやかな趣味人である諸葛融がいます。こんな風に書くと、諸葛喬には何も取り柄がないように聞こえますが、次男として生まれた諸葛喬は謹厳実直であり、父である諸葛瑾に似ていたようです。おそらくは、その事もあり真面目で言う事を聞く人が大好きな諸葛亮のメガネに適ったのか、彼ははるばる蜀までやってきて諸葛亮の養子に入る事になります。
成人してから蜀に入った諸葛喬
では、諸葛喬は何歳頃に蜀に入ったのでしょうか?その時期について正史三国志には記載がありませんが、当時は二十歳にならないと成人と見做されず、相続も正妻を娶る事も出来ませんでした。このような事から考えると、西暦203年生まれの諸葛喬は221年頃には数えで二十歳ですが、その時期は、夷陵の戦いの前で蜀と呉の関係が険悪な時期なので、なかなか難しかったと考えられます。
というのも、諸葛喬が養子に入る時に、実父の諸葛瑾は孫権に対して喬を蜀に養子に出す事を願い出て許可を得ていて、もし、戦争中なら許可は下りないだろうからです。そうなると、劉備が没して蜀呉の同盟が復活する西暦223年頃が最適と考えられますので、おそらく諸葛喬は西暦223年頃に蜀に入ったと見ていいでしょう。
諸葛亮に気に入られた諸葛喬
元々、諸葛喬の字は仲慎と言いましたが、諸葛亮の養子に入るに至って伯松と変わりました。中国では長男に字に伯、次男に仲とつけるので、諸葛亮の長男になるに伴い、次男から長男へと名乗りを変えたのです。そんな諸葛喬は諸葛亮に気に入られ、また丞相である諸葛家の名を汚さないように厳しく指導される事になりました。三国志霍弋伝では、諸葛亮は漢中に常駐すると、霍弋を朝廷から請うて書記官とし、養子の諸葛喬と合わせて各地を旅行させて見聞を広めさせています。
「机の上の学問だけではいけない、社会に出て見聞を広めるように」恐らく諸葛亮はこう考えて、本当に諸葛喬を自分の後継者にしようとしたのでしょう。そればかりではなく、諸葛亮は諸葛喬を北伐に従軍させ、他の良家の子弟と共に、谷中で非常な難儀である食糧輸送の任に宛てています。諸葛喬には部下を5~6百人も与え、困難の中で上下一致して任務を全うする事を学ばせているのです。
これも身分だけ高く、下の人間の苦労が分からないエリートバカを造らない為の孔明の愛の鞭だったのでしょう。
孔明と同時期に父になる諸葛喬
そんな諸葛喬には、諸葛攀という息子が誕生しました。生誕年について史書に記録はありませんが、諸葛攀が228年に25歳で亡くなる事を考えると224年から227年までには生まれていないといけなくなります。すると227年に誕生する諸葛亮の一粒種の諸葛瞻と、諸葛攀はそれほど年齢が変わらない事になるのです。
もしかすると、二人は相次いで父になったかも知れず、諸葛家は喜びに沸いたかも知れません。ただ、諸葛喬にとっては諸葛瞻の誕生により、自分が養子に入った意味が無くなってしまったわけですが・・ただ、諸葛喬自体は、王族が付く事が多い駙馬都尉に拝命されていて、諸葛亮の跡を継げなくても別に一家を興して、劉禅を支える閨族の一員になったと思いますけどね。
二十五歳の若さで亡くなる
しかし、息子が誕生した喜びを味わう間もなく、西暦228年、諸葛喬は亡くなりました。何月なのかは不明ですが、この年は街亭の敗戦や姜維を得るなど諸葛亮にとっても、激動の年でした。自ら教育した諸葛喬が25歳で死んだ事は孔明に相当な落胆を与えた事でしょう。幸いだったのは、前年に諸葛瞻が生まれていた事と諸葛喬の遺児、諸葛攀の存在です。
当時の習慣では、父母に死なれて身寄りがない一族の子弟は、父の兄弟や叔父のような年長者が面倒を見ていましたので、諸葛攀は諸葛亮を父として育ったのではないかと思います。諸葛亮自身も、若くして父母に死に別れて従父の諸葛玄に生活の面倒を見てもらった経緯があるので、自分の子として接した諸葛喬の遺児もまた我が子として厳しくも暖かい愛情を持って、接したのでしょう。
もっともそんな諸葛亮も、234年には五丈原に没してしまうので、諸葛攀は大きくても10歳にしかなってなく、諸葛瞻に至っては満7歳、どうにも諸葛家というのは家族の縁が薄い一族のように感じてしまいます。
三国志ライターkawausoの独り言
諸葛喬自身は、僅か25歳で亡くなった事もあり、これという功績は残っていません。しかし、諸葛亮が自ら息子として育て、大いに期待をかけていた点を見ると長じれば蜀の名将として孔明を支える存在になっていたかも知れません。彼の子として生まれた諸葛攀も地味ながら、興味深いエピソードがあるので読んで頂けると幸いです。
参考:正史三国志
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