戦国の風雲児織田信長、しかし少年時のうつけエピソードを別にすると信長の活躍が多く描かれるのは桶狭間の後であり、信長が家督を継いでから十三年間続いた尾張統一戦争についてはあまり詳しく知られていません。そこで今回は信長苦心の十三年、怒涛の尾張統一を10分で分かるように解説します。
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この記事の目次
誕生から家督相続まで
織田信長は天文三年(1534年)5月尾張の戦国大名織田信秀の嫡男として勝幡城に生まれます。信長が生まれた「弾正忠家」は尾張国下四郡の守護代、清須織田家の家臣であり分家で清須三奉行という家柄でした。
ただ、当時、尾張国の守護、斯波氏の力は衰え、さらに守護代の織田氏も南北二つに分裂していました。力の空白を突いて勢力を伸ばしたのが信秀であり、清須織田家の守護代、織田達勝の支援を受けて今川氏豊から那古野城を奪い勢力の拡大を続けている状態でした。
信長は早くに信秀から那古野城を譲られ城主となり、天文十五年に古渡城で元服、三郎信長と称し、翌年には今川との小競り合いで初陣を果たし、天文十八年からは尾張国の政務に関わります。天文十八年から十九年にかけて、信秀が敵対していた美濃国の戦国大名、斎藤道三と和睦が成立。嫡男信長と道三の娘帰蝶と縁組が結ばれます。
美濃斎藤家との縁組により信長が家督を継ぐ事は間違いないと考えられましたが、父信秀は信長の地盤固めをする前に天文二十一年(1552年)3月頃に病死。それにより信長は家督を継ぎ、上総介信長と名乗りますが、うつけとバカにされていた信長には敵も多く、ここから十三年続く尾張統一戦争が始まります。
清須織田家との戦いが勃発
信長の最初の相手は守護代の清須織田家でした。それまで信秀と協調していた清須織田家の守護又代の坂井大膳が、うつけの信長なら倒せると同僚と計略を練り、信長支配下の松葉城と深田城を襲撃、松葉城主織田伊賀守と深田城主織田信次を人質にしました。
しかし、舐められてたまるかと怒った信長はこれに迅速に対応、守山城から駆け付けた叔父の織田信光と合流し兵を三手に分けて戦い萱津で激戦し敵の重要部将坂井甚介を戦死させる手柄を立てます。勢いに乗った信長は松葉城と深田城を奪還し、さらに清須城下の田畑を薙ぎ払いました。この辺りから、清須織田家と信長の戦いが本格化していきます。
信長舅斎藤道三と会見し村木砦で今川を破る
清須織田家との戦いの最中、天文二十二年、4月頃、信長は正徳寺で美濃のマムシ斎藤道三と初会見。ここで道三はうつけとされた信長の器量を見抜いたとされます。しかし、翌年の天文二十三年、今度は知多半島の領有を争っていた今川義元が、知多の水野氏攻略のために、本拠地の緒川城に近い村木に砦を築きます。
信長は水野氏救援に向かいますが、留守中に那古野城を清須城の織田信友が襲う恐れがあったので、信長は義父の道三に援軍を要請。道三は安藤守就以下1000名の兵士を派遣します。途中、織田方だった寺本城が今川方に寝返ったり、弟の信勝派だった林秀貞、通具兄弟が不服を言い帰るなどのアクシデントがありましたが、信長はものともせず船で緒川城の近辺に到着し激戦の末に一日で村木砦を陥落させました。ここで信長は鉄砲を連続使用して村木砦にひっきりなしに弾丸を浴びせ戦況を有利にしたと伝わります。
さて、信長相手に苦戦していた清須織田家は痛恨のミスを犯します。名目だけとはいえ尾張国の守護大名だった斯波義統が清須織田家の部将坂井大膳に殺害されたのです。原因は斯波氏が信長に付こうとしたからのようですが、大膳は、義統の息子の義銀を取り逃がしてしまい、義銀は信長を頼って落ち延びます。
信長はこれで主君殺しの清須織田家を討伐する大義名分を得、数日後には柴田勝家率いる長槍部隊が安食で清須方に圧勝。急激に衰弱した清須織田家は、信長と信光の策略により清須城を奪われ、守護代織田彦五郎が自害。ここに尾張守護代清須織田家は滅亡しました。
義父斎藤道三が殺害され織田信勝との戦いが勃発
しかし、信長の平穏は長く続きません。清須織田家を滅ぼして二年後の弘治二年(1556年)4月、義父道三が、息子の斎藤義龍に叛かれて敗死したのです。信長は道三救援の為に木曽川を越え、美濃の大浦まで出陣しますが、義龍の軍勢相手に苦戦、その途中で道三敗死の報が届くと信長自らが殿を務めて退却します。
こうして、美濃の有力な後盾を失った信長に対し、信長の弟の信勝を推す林秀貞、林通具、柴田勝家が挙兵しました。信勝は信秀の死後に有力な家臣や末盛城を与えられ、愛知郡内に一定の支配権があり信長に叛く力を持っていたのです。今度は弟と戦う羽目になった信長は弘治二年8月に稲生で激突しました。
信長公記によるとこの時信長の兵力が700名であったのに対し、信勝方は柴田勝家が1000人、林秀貞が700名で倍以上の兵力で信長が不利でした。それに加えて戦上手の柴田勝家の奮戦もあり、信長は主だった家臣が討たれ続け、一時は押し寄せる柴田軍に対し、本陣の兵力が40人しかいないピンチになります。ところが信長を討たせるものかと、織田信房、森可成の両名が前線で粘り、清須衆の土田の大原という武将を返り討ちにするなど奮戦。さらに、ここで信長が清須兵を「なにを味方同士でドンパチしとんのじゃァ、しばくぞボケェ!」と大声で怒鳴りつけると怯えた清須兵は逃げ、信長は窮地を脱します。
勢いを取り戻した信長は、林秀貞の軍勢に襲い掛かり、相手方の主だった武将を次々に血祭りにあげ、全体で450名ばかりを討ち取り逆転勝利しました。敗れた信勝勢は末盛城に籠城し信長は城を包囲しますが、生母である土田御前の仲介で、信勝と勝家を赦します。しかし、信勝は永禄元年(1558年)に再び謀反を企て、それを見て信勝を見限った柴田勝家の密告により信長は病気と称して信勝を清須城に誘い出して殺害しました。
こうして、信長は骨肉の争いを完全勝利で制したのです。
岩倉織田家を滅ぼしてほぼ尾張統一
永禄元年七月、信長は同族の犬山城主、織田信清に姉の犬山殿を嫁がせて縁組しました。目的は尾張の上四郡を支配する守護代岩倉織田家の当主、織田信賢を攻める為です。当時、岩倉織田家は当主の織田信安が斎藤義龍に通じて信長を攻撃するなど敵対していましたが、信安は嫡男の信賢を疎んじて次子の信家を後継ぎにしようとして逆に信賢に追放され、岩倉織田家の実権は織田信賢が握っていました。
この内紛を見逃さず、信長は2000名の軍勢で浮野の地で3000名を率いる信賢軍と交戦、しばらく激戦が続きます。そこへ織田信清の援軍1000名が到着すると形勢は逆転、岩倉織田軍は壊滅して1200名の死者を出し信賢は敗走して岩倉城に逃げますが、翌年には信長が岩倉城を包囲し数か月後に信賢は降伏。尾張守護代岩倉織田家も滅亡したのです。姉を信清に嫁がせて同盟を結んだ信長の作戦勝ちでした。
ほぼ尾張統一を成し遂げた信長は永禄二年に500名の兵力を率いて上洛し、室町幕府十三代将軍足利義輝に謁見しています。目的は義輝に尾張の支配者として認めてもらう為とも、三好長慶により室町将軍の権威が落ちていた為に、足利幕府が存続できるか自ら確かめるためとも言われています。
信長としても尾張の激闘を制し、ある程度余裕が出来た上での上洛だったのでしょう。
最大の危機桶狭間の戦い
ところが信長の危機はまだ去りません。今度は海道一の弓取り今川義元が一万とも四万とも言われる大軍で尾張に侵攻します。従来は、この義元の侵攻は上洛の為と言われていましたが、現在は知多半島の常滑焼の運上益を巡る勢力争いであると考えられています。義元は、知多半島を抑える鳴海城と大高城を調略により今川方に寝返らせ知多半島と信長の本領を分断、それに対し信長も丸根砦や鷲津砦を張り付けて補給を分断します。ここで義元は松平元康に兵糧を持たせて大高城に入らせ、その後詰めとして自ら出陣して桶狭間に陣を敷きます。ここで、信長は数千名の手勢で雨の中を進んで桶狭間を奇襲したのです。
たまたま狭い桶狭間に陣を置いていた義元は軍を満足に動かす事も出来ないままクビを討たれてしまいました。義元の死により、今川軍は退却し急激に弱体化、今川の支配下にあった松平元康は、独立して織田信長と清須同盟を結びます。
さて、最後に残っていた犬山城の織田信清は、織田信賢の領土の分け前を巡り信長と揉め、永禄五年に反旗を翻して楽田城を奪います。しかし、謀反するにはもう遅すぎ、攻勢を強めた信長軍により、支城が続々と陥落し永禄7年には犬山城も陥落。信清は甲斐に逃亡しました。かくして、家督相続から13年続いた尾張統一の戦いは尾張を告げたのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
織田信長を主役にしたドラマや映画でも、割とスルーされやすい家督相続から尾張統一までを怒涛の勢いで解説してみました。次から次へと出現する敵を全力で倒していく信長はやはり戦闘力が高い人物だったんでしょうね。
参考文献:Wikipedia
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