2020年のNHK大河ドラマは、天下の謀反人明智光秀が主人公の麒麟がくるです。ドラマの第一話で光秀こと明智十兵衛は、野盗が保有していた新兵器鉄砲を手にいれる為に城主の斎藤利政(道三)に直訴して、当時の日本有数の大都市堺に旅に出ます。
斎藤利政も初めて見る新兵器鉄砲に興味を示しますが、果たして当時、斎藤道三は鉄砲を知らなかったのでしょうか?
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鉄砲伝来は天文十二年(1543年)だが異説あり
歴史上、日本に鉄砲が伝来したのは、天文十二年、九州の種子島とされています。海岸に大型の明の船が漂着し、そこに乗り込んでいたポルトガル人が持っていた鉄砲を領主の種子島時堯が買い取り、それが全国に広がった事が1606年に出された鉄炮記という本に出てきています。
しかし、これは一面的な見方であり、漂着した明船が倭寇の船であった事も判明し、実は鉄砲は欧州経由ではなく、東南アジアで猛威を振るった倭寇から日本の複数の地域にもたらされたのではないか?という考えが主流になっているのです。
永正七年にはすでに日本に伝来していた
鉄砲が従来言われているよりも、30年以上早く伝来したという史料が、北条五代記の「関八州に鉄砲はじまる事」に出て来ます。
それによると、昔小田原に玉滝坊という老山伏がいて、彼が永享初年(1528年頃)和泉堺に下った時、激しい爆裂音を出す珍しい筒を見つけた。これは鉄砲と言い、目当てを取って撃つ。永正七年(1510年)には唐から日本に伝来しているようで、玉滝坊はさても珍しく奇特な道具だと思い、一挺買うと北条氏綱に献上したと言うのです。
これが正しいのなら、鉄砲が日本に伝来したのは欧州ではなく中国経由で、それも1510年というのですから、教科書で紹介されているより、33年も早い事になります。
玉滝坊が見たのは三眼銃ではないか?
しかし、永世七年に日本に伝来したのが、種子島銃かどうかは検討の余地があります。実は中国には明の時代から三眼銃という銃火器がありました。こちらは一本の砲身の先が3つに分かれていて、そこに火薬を詰めて、着火口から火をつけて発射します。ただし、三眼銃には火挟も火蓋も引金もなく、狙撃するには不向きであり分類上もハンドキャノンと大砲のジャンルに含まれています。
玉滝坊の話にも、目当てを取ってうつとあるだけで、引き金を引くという描写はありません。ここから見ると、永正七年に伝来した鉄砲とは、三眼銃の事ではなかったかと思います。ただ、その後北条氏は鉄砲を大量に購入したようで、永禄四年(1561年)には、攻めて来た長尾景虎に対して、北条宗哲が部下の大藤政信に、鉄砲五百挺で敵を防ぐように命じていますから、その頃には三眼銃ではなく、種子島に切り替わっていた事は間違いないと思います。
日本で最初に鉄砲で負傷した人は?
戦国日本で、確実に鉄砲が戦争に使用されたのは、天文十九年(1550年)三好長慶と細川晴元の軍勢が激突した中尾城の戦いで、この時、三好勢の三好長虎の与力が幕府勢に鉄砲で撃たれ、死んだという話が言継卿記に出てきます。
こちらが日本史上最初の鉄砲による死者ですが、この頃は鉄砲があると言っても、少数の鉄砲が狙撃武器として使用されただけと考えられています。だからこそ、山科言継も珍しい事として日記に記録したのでしょう。この時に、幕府兵を指揮した細川晴元サイドの13代将軍足利義輝は、鉄砲の威力に着目して、刀鍛冶に鉄砲を造らせていたようで、天文二十二年に上野国金山城主の横瀬成繁が鉄砲数寄(マニア)である事を聞いた義輝が鉄砲を一挺与えています。
大河ドラマ上で、明智十兵衛が初めて鉄砲を知ったのが、天文十六年(1547年)なので、鉄砲もポツポツとしか存在しなかったと考えると、その野盗が、鉄砲受容の歴史が長い摂津や大和方面から流れてきたとして、光秀や斎藤道三が、鉄砲を知らなかったというのは、ギリであり得るかな・・
兵器として認識されるのは結構遅かった鉄砲
しかし、斎藤道三が兵器としての鉄砲に目をつけるのが遅くても驚くには当たりません。というのも、鉄砲は長く狙撃兵器であり、大量に備えて、一斉掃射する事で戦局そのものを変えるような主力兵器になったのは、長篠の戦い以降だからです。
さらに、鉄砲は舶来品が多く、値段も現在価格で一挺60万円もする高級品で、5万円前後で買える槍に比べるとコスパが悪く、同時に鉄砲を使うには、硫黄、硝石、鉛玉のような付属物資も必要でした。特に、硝石は輸入頼りであり、鉛は銀の精製に不可欠な事から品薄で、集めるのが大変。その為、強いて鉄砲を備える必要があるのか疑問をもつ戦国大名もいたでしょう。
実際、中国の覇者である毛利元就は、永禄末年(1570年頃)に平佐源七郎という部下に、「最近、鉄砲という摩訶不思議な兵器が出現したので、くれぐれも油断するな」という注意書きを与えているほどで、長篠の戦いの前、鉄砲が主力兵器とは考えられていなかった様子をうかがい知る事が出来ます。
戦国時代の名将毛利元就でさえ、この程度の認識なら、1547年の段階で鉄砲の重要性に気づいた、道三と光秀は先見性があったと言えるでしょう。
鉄砲が根付いた地域
種子島に伝来した鉄砲は、3つのルートで量産が開始されたと言われています。
①紀州の根来寺・・・津田監物が種子島から鉄砲を持って帰り門前町に住んでいた芝辻清右衛門に造らせ、以来鉄砲製作が盛んになる。
②堺・・・・・・・・堺の商人、橘屋又三郎が種子島に渡って技術を学び、堺で大量生産に着手した。
③近江国友村・・・種子島で複製した鉄砲が将軍、足利義晴に献上され、天文十三年(1544年※時期には異同あり)、義晴は模型を示して細川晴元に命じ量産させた。当時近江姉川の上流では良質な砂鉄が取れた事から、近江国友村が生産地に選ばれ、国友鉄砲として有名になった。
堺や根来寺はともかく近江国友村は美濃と国境を接した場所です。いかに細川晴元が秘密主義を貫いたとしても、製造した鉄砲は村から外に出ていくわけで、明智荘の田舎者、明智十兵衛はともかく、1544年には量産が始まった鉄砲を、1547年の段階で美濃守護代の道三が知らないというのは、ちょっと無理があるかも・・
戦国時代ライターkawausoの独り言
大河ドラマは、話の都合上、史実とは違う内容を挿入する事も多いです。麒麟がくるでは、第一話で野盗が放つ鉄砲が光秀の革新性と冒険的な性格を象徴する重要なアイテムになり、松永光秀や、喜平次や望月東庵、駒、細川藤孝、三淵藤英を結び付ける核になります。
しかし、美濃と国境を接する近江国友村で1544年には量産が始まった鉄砲を3年経過した段階で美濃守護代の斎藤道三が知らないというのは多少厳しい設定かも知れません。
参考文献:戦国の合戦 小和田哲夫
参考文献:真実の戦国時代 渡邊大門
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