麒麟がくるにも登場した松平竹千代。元々今川義元の人質として父に派遣された竹千代ですが、途中で織田家に奪われました。実の息子を今川家の人質に出そうとした情けない父、それが今回取り上げる松平広忠です。でも、無能に見える広忠も、その人生を見ると思わず同情してしまいそうな悲惨なものでした。
この記事の目次
父清康が家臣に殺され運命は暗転
松平広忠は、大永六年(1526年)松平清康の嫡男として生まれました。松平清康は三河松平氏でも傑出した勇者で家督を継いだ10年の間に分裂した松平一族を掌握し三河統一を果たします。しかし、広忠が9歳の時、悲劇が起こります。父清康が三河統一の勢いに乗り、1万余りの大軍で織田信秀の弟織田信光の守山城を攻めている途中、家臣の阿部弥七郎に逆恨みで斬られ絶命します。これを守山崩れと言い清康は僅か25歳でした。
強力なカリスマを持った清康の死で結束していた松平氏は空中分解。9歳の広忠は、織田信秀とも通じていた同族の叔父松平信定に岡崎城を奪われ、所領も続々と取られて、遂には命さえ狙われる羽目に陥ります。
家臣阿部定吉に匿われ伊勢まで逃げる
命の危機にあった広忠を救ったのは阿部定吉という家臣でした。実はこの定吉、広忠の父清康を殺した阿部弥七郎の父です。おまけに弥七郎が清康を殺した動機は、父の定吉を清康が疎んじて殺したのだと勘違いした為でした。責任を感じた定吉は自害しようとしますが、広忠は定吉を咎めずにそのまま家臣にします。父を殺した男の父をそのまま家臣として使うとは、9歳とは思えない英断です。
広忠の英断で強い恩義を感じた定吉は、松平信定に命を狙われた広忠を伴い、吉良持広を頼り伊勢まで逃げました。広忠は、ここで元服し持広の一字を貰って広忠と名乗ったそうです。やがて吉良持広が死去して、吉良家が織田家に従うようになると、定吉は駿河の今川義元を頼ります。
なんか嫌な予感がしてきましたが、その通りで、この頃から今川義元は三河へ介入していきます。でも、この事で阿部定吉を責めるのは酷でしょう。阿部定吉は息子が主君を討った罪の重さを受け止め、養子を取る事なく定吉の病死で家は断絶しました。
今川義元の援助で松平家当主に返り咲く
定吉は駿河に渡り吉良家の口添えもあり、今川義元の兵力を借り受ける事に成功。清康の弟、松平信孝・康孝、大久保忠俊の協力を得て天文六年(1537年)岡崎城に返り咲くのです。時に広忠は11歳でした。追い落とされた松平信定は、渋々広忠に従いますが、翌年には病死しました。
天文十年(1541年)広忠は14歳で尾張知多郡の豪族、水野忠政の娘、於大を娶り、翌年には嫡男竹千代が誕生。徐々に三河当主としての地盤を固めていきます。
しかし、この婚姻は水野忠政が死去し、後を継いだ水野元政が織田信秀に付いた事で破綻。何の落ち度もない於大は離縁され実家に帰されていまい、竹千代は物心つかないうちに母との別離を経験します。こうして、城主に返り咲くのに今川義元の力を借りた事で、広忠は、今川氏の盾として織田信秀と戦い続ける運命を背負う事になります。
織田信秀との激闘
天文十四年(1545年)、松平広忠は安城畷において織田軍と戦い勝利を得ます。その後、天文十六年横暴な振る舞いが増えた松平信孝と渡理川原で戦い本多忠高の功績で勝利しました。同年、織田信秀が大軍を発して三河に攻めこむと広忠は義元に援軍を申し入れます。
この時、義元は広忠に嫡男の竹千代を人質に差し出すように命じ、広忠は従いますが竹千代は途中で織田家に奪われます。天文十七年(1548年)小豆坂において織田信秀と対陣、この時には今川家から太原雪斎と二万の援軍を受けて大勝します。翌年には再び織田信秀と戦い勝利を得て、織田信広を人質として息子の竹千代と交換、竹千代はそのまま駿河に送られました。その間に叛いていた松平信孝を敗死させ、広忠はなんとか三河を守り抜いています。
暗殺から病死まで様々な死因
ところが、これからという時に松平広忠は、天文十八年(1549年)3月6日に24歳で死去します。その死因については、病死、家臣岩松弥八による暗殺、鷹狩りの途中に一揆による殺害という説もあり一定していません。
一説には一揆による殺害は織田信長の差し金によるものという見方もあるようです。麒麟がくるでは、この信長による殺害という説をアレンジしつつ取っています。もしこれが本当なら、家康は長男、正室、父親まで信長に殺された事になりますね。
こうしてみると、今川義元の操り人形として評判がよくない広忠も、今川家の後ろ盾を得ながらとはいえ、なかなか頑張っている様子が見えます。24歳で死ななければ、もう少し老獪に戦国乱世を泳ぎ切ったのではないでしょうか?
徳川家康との関係
後に天下人になった徳川家康は、父である松平広忠について何も語っていないようです。逆に、実家が織田家についた事で、今川家についていた松平広忠から離縁された生母の於大の方については、彼女が尾張阿久比城主久松俊勝と再婚してからも連絡を取り合っています。
桶狭間の戦いの後で自立した家康は、尾張阿久比城主久松俊勝をそのまま引き抜いて家来にし、生母の於大と再会する事に成功しています。こうしてみると家康は自分に人質生活を強いて、生母との関係を断ち切った広忠には、あまり良い印象がなかったかも知れませんね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
松平広忠については、その生涯について不明な点や文献の異同が多く、まだ、これという人物像は定まっていないようです。麒麟がくるでも、信長の刺客に殺害され、すぐに出なくなってしまいますが、苦労しどおしの人生に思いをはせて見てみると、情けない家康の父という印象も少しは変わるかも知れません。
参考文献:NHK大河ドラマ完全ガイドブック 麒麟がくる