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実はグダグダだった関ケ原合戦!本当にマジメに戦っていたのは主戦場から遠く離れた場所のこの二人だけ!?

2020年3月29日


 

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合戦シーン(戦国時代の戦)

 

日本史の一大転換点となった、関ケ原合戦。長く続いた戦国時代のクライマックスのようなところもあり、歴史ファンにとってはたまらない題材ですよね。そして関ケ原合戦の魅力は、わずか一日の間に凝縮されたドラマチックなエピソードの数々!

 

真田昌幸

 

・東西の有名大名がズラリと名前を揃えた主戦場の壮観!

真田昌幸と徳川家康

 

・信濃国では真田昌幸(さなだ まさゆき)徳川秀忠(とくがわ ひでただ)を翻弄し、関ヶ原への援軍を見事に封じる!

・関ケ原合戦は途中まで一進一退の互角!

・それが、土壇場で小早川秀秋(こばやかわ ひであき
)
が寝返り!

大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)が小早川軍を食い止めようと絶望的な抵抗陣を敷いて壮絶な戦死

 

同年小録(書物・書類)

 

しかし正確な研究が進むにつれて、近年、こうしたドラマチックな展開の大半は、どうやら江戸時代につくられた創作の可能性が高まってきています。あくまで当時の手紙や文書から関ケ原の実像を再現している最近の新説を見ると、通説の関ヶ原ドラマを愛好する人にとっては、いろいろと残念な研究成果があがってきています。

 

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

かの合戦、大筋の展開は通説と同じなのですが、実像はそれほどドラマチックなものではなかった、というのです。合戦が始まった瞬間に、西軍がボロボロに四散していくという、最初から「戦いになっていなかった」展開が、実状に近いとされてきています。

 

足軽a-モブ

 

ただし最近の新説を追っていくと、主戦場の関ヶ原から遠く離れた別の場所で戦っていた「ある二人」については、むしろ通説以上に脚光が当たるという、意外な発見も起こっているようです!

 
 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも西軍の大名は主力を連れてきていなかった?

水滸伝って何? 書類や本

 

まず疑問符がついているのが、「関ヶ原合戦は当初は東西軍互角だった」という話。というのも、当時の書簡等を読み解いていくと、どうやら準備段階から、西軍側には困った事情があったようです。

石田三成

 

石田三成(いしだ みつなり
)
が期待をかけていた手勢といえば、宇喜多秀家(うきた ひでいえ
)
島津義弘(しまづ よしひろ
)
毛利輝元(もうり てるもと
)
だったのですが、

 

徳川家康

 

・宇喜多家は直前にお家騒動があり、それを何と徳川家康に仲介してもらったという「しまらない」経緯があった。宇喜多秀家がいくら指示を出しても、諸将たちの士気がなかなかあがらなかった。そこで、宇喜多家ほどの名門が、関ヶ原合戦時には「多数の浪人たちを緊急登用(!)」して参戦していた気配がある。

 

薩摩藩の島津義弘

 

・島津義弘は関ケ原に向かうにあたって本国(薩摩(さつま))に軍の派遣を要請したが、なぜか薩摩からは1,000人程度しか派遣されなかった(国元を預かっていた島津義久(しまづ よしひさ
)
が家康に配慮をしたものと推測される)。さすがの島津義弘も、この程度の人数では、ほとんど何もできなかった。

 

毛利輝元

 

毛利輝元(もうり てるもと
)
は西軍最大の兵力を擁しながら、合戦の当日には大阪城からほとんど動かなかった。これは「関ケ原合戦の混乱に乗じて、四国に攻め込み、毛利家の領土を広げよう」という余計なことを考えて、兵力を温存する判断をしてしまった模様

 

足軽b-モブ

 

このように、西軍の諸大名はみんなそれぞれの理由で「主力を派遣できなかった」というのが実情のようです。

 

小早川秀秋は土壇場で寝返ったのではなく、最初から家康側に立っていた?

小早川秀秋

 

最近の研究の中で、関ケ原のドラマを愛する人にとって最大級のショックは、「合戦の土壇場で小早川秀秋(こばやかわ ひであき
)
が寝返ったため、形勢が一気に東軍に傾いた」という出来事が、そもそも後世の創作である疑いが強まっている点でしょう。

 

・小早川秀秋が最初は西軍につきながら、東軍に寝返ってしまったことは、事実

・そして小早川家の寝返りが「合戦の趨勢を決定した」というのも事実

・小早川家が寝返ったのを見て、西軍の士気がガタ落ちしたというのも、どうやら事実

 

ところが問題は、その小早川家の寝返りのタイミングです。

 

細川晴元

 

最近の史料研究によると、小早川秀秋は合戦が始まる前にはすでに家康に呼応しており、合戦が始まった頃には、堂々と、東軍の一部として西軍の陣地に攻めかかっていたようです。

 

つまり、

・西軍の一角の大部隊が合戦の最中に突然裏切り、それで大混乱になった

というよりは、

・開戦早々、小早川家の軍勢がちゃっかり東軍に混じって進撃してきたので、西軍はやる気をなくした

というほうが実情に近いというわけです。

 

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

小早川家が最初から裏切っていて、西軍の瓦解はそれを見ての意気消沈から始まったとすると、「途中までは東西軍は互角だった」という通説はどうなるのでしょうか?

 

また、「小早川家の裏切を食い止めようとして壮絶な戦死を遂げた」とされる大谷刑部の美談は、どうなってしまうのでしょうか?

 

まとめ:意外なことに、一番マジメに戦ったのは真田昌幸と徳川秀忠だった?

西遊記巻物 書物

 

このように、いろいろと往年の関ケ原ファンにはガッカリな新説が登場している昨今。ですがこんな中にあって、むしろその意義を見直されているエピソードもあります。

 

関ケ原の戦場に向かっていた徳川秀忠(とくがわ ひでただ
)
の部隊が、信濃の上田城を守る真田昌幸に翻弄され、けっきょく関ヶ原合戦に間に合わなかったという大失態をしたエピソードです。

 

徳川家康

 

従来これは、徳川秀忠が率いていたのは増援であり、これが遅れたために後で家康の怒りを買った、くらいのエピソードで収まっていたのですが、渡邊大門(わたなべ だいもん
)
氏の『関ケ原合戦は「作り話」だったのか』という本では、オドロキの指摘がされています。

 

秀忠が率いていたのは援軍どころか、家康が関ヶ原への主力をきれいに2つに分けたうちの片方、つまり「主戦力の精鋭のちょうど半分」だったというのです!

 

戦国時代ライターYASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

徳川秀忠の下には、兵数としても数万のレベルの大軍が入っていたはずですし、主戦場での活躍を期待されていた有能な武将もたくさん随行していたことでしょう。

三国志を楽しく語るYASHIRO様

 

となると、敵の主力の半分を一手に引き受けて、見事に主戦場に参加させなかった真田昌幸(さなだ まさゆき
)
の活躍の意味は、通説よりもはるかに大きくなるのではないでしょうか。

ポイント解説をするYASHIRO様

 

また秀忠が上田城にこだわったのも、これほどの戦力を与えられていながら城ひとつ落とせなかったという風評が出ることを恐れてのことではないでしょうか。意外なことに、実際に本気で死力を尽くして戦いあったのは、関ヶ原から遠く離れた場所の2人、真田昌幸と徳川秀忠だったのかもしれません!

 

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YASHIRO

とにかく小説を読むのが好き。吉川英治の三国志と、司馬遼太郎の戦国・幕末明治ものと、シュテファン・ツヴァイクの作品を読み耽っているうちに、青春を終えておりました。史実とフィクションのバランスが取れた歴史小説が一番の好みです。 好きな歴史人物: タレーラン(ナポレオンの外務大臣) 何か一言: 中国史だけでなく、広く世界史一般が好きなので、大きな世界史の流れの中での三国時代の魅力をわかりやすく、伝えていきたいと思います

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