戦国時代の文献に出て来ない事には出産の様子があります。これらの事はあまりに当たり前すぎて記録するまでもないと思われていたのか文献から、その様子を窺う事は困難です。しかし、出産の様子は絵巻物を通じて絵として残されており、私達は何百年も前の命の誕生の様子を知る事が出来るのです。今回は、融通念仏縁起から、その一端を見てみましょう。
当時の出産には産屋が建てられた
現在の出産は多くは産婦人科か、そうでないなら自宅で助産師の手を借りて行われます。しかし、戦国期には庶民の出産は自宅ではありませんでした。当時の社会では、医学全般が未発達なので出産により、母子が亡くなるという事は普通にありました。このような事を当時は「出産が穢れであり、魑魅魍魎が寄ってきて祟りを為す為」と考えたのです。
実際に餓鬼草子という絵巻物には、前世の悪行の報いで、生まれたばかりの赤ん坊しか食べられない宿命を背負った食小児餓鬼という、ちょっと何言ってんのかよくわからない妖怪が描かれています。乳幼児の死を餓鬼の仕業と解釈した人々の恐怖心が産んだ祟りでしょう。
出産を穢れと見做す根拠は不明ですが、どうやら出産に伴い妊婦の体内から排出される汚物や血が穢れのイメージを与えたと考えられます。そこで、穢れを避ける為、出産を自宅で行わずに産屋と呼ばれる仮設の出産室を建て、そこで出産を行いました。
こうすれば、自宅に穢れをつける事を避けられると考えたからです。出産の度に妊婦に個室が与えられるのか~と呑気に考えてはいけません。産屋は、取り壊す事を前提に建てるので安普請で居住環境は劣悪であり、おまけに穢れのせいで出産間近には、限られた人間しか産屋に入れませんでした。そして、どういうわけか産屋は、大通りに面した所に建てられる事が多く、自宅から離される事も多々ありました。妊婦は出産の日まで孤独に耐えながら不自由な生活を強いられます。
多くの部屋を持つ貴族や上級武士は、産屋を造らずに室内で出産させ、その部屋を穢れているとして、しばらく使わないという選択肢も取れたので、この場合は妊婦は少しは楽でした。
拷問のような妊婦の扱い
しかも、妊婦は産後も多くの迷信に縛られていました。例えば、頭に血を上せない為という理由で、産後七日間は横にもなれず、産椅という椅子に正座させ、四六時中監視がついて眠る事も許されませんでした。さらに、産後には栄養価が高いモノは毒になると信じられ、少しの粥と鰹節しか与えられなかったようです。
ただでさえ疲れているのに、栄養も摂れず七日間も横になれない眠れないでは、大袈裟ではなく命に関わりますが、当時は大真面目に信じられていたのです。さらに、この風習は上は皇后から、庶民の女まで一律同じだったそうです。
戦国時代の出産は座り分娩
現在の出産は妊婦がベットに寝たままで行いますが、戦国時代の出産は座り分娩でした。融通念仏縁起という鎌倉末の絵巻物には、妊婦である牛飼童の妻が座ったまま足を開き、うめき声をあげて天井から下げられた産綱を引っ張っている光景が描かれています。
妊婦には、二人の産婆がついて一人は妊婦の頭を抑え、もう一人は妊婦を励ましています。あるいは励ましているのは産婆の助手かも知れません。部屋の片隅には夫である牛飼童がいて、両手を合わせて祈っている様子が見えます。
よく見ると、妊婦は板敷きの上ではなく、その上に敷かれた畳の上にいます。当時の庶民は畳を部屋中に敷き詰める程の財力がないので、この畳は今で言うとベットなのでしょう。座り分娩は、重力を上手く使い、体外に出ようとする胎児の動きをサポートする意味では非常に合理的ですが、病院での出産が普通になり、いつしか見られなくなりました。
出産を見守る周囲の人々
融通念仏縁起には、産婆や妊婦の夫だけだはなく、命の誕生におっかなびっくりの周囲の人々も描かれています。この牛飼童の妻は難産であったようで、安産を祈願する僧侶や、隣の家に住む女性が心配そうに部屋をのぞき込んでいる様子。腰が45度に曲がった老婆が杖をついて佇んでいたりしています。産屋に面した大通りを通る人々も悲鳴のようなうめき声を聴いて、何事かと目線を産屋に向けている様子が描かれています。
それ以外にも出産を見越し、鉢巻きに襷掛けをして井戸水を汲み上げて産湯を沸かす準備をする女性。妊婦の衣服を足踏みで洗う乳房を出した女性も描かれています。当時、初乳はあまりよくないものとされ、生後2日くらいは、他人の乳飲み子を持つ女性の乳を新生児に飲ませる風習がありました。
乳房を露出した女性はその暗示かもしれず、難産だが子供は無事に生まれる事を意味しているようです。このように、当時の出産は必然的に近所を巻き込む一大イベントでした。こんな思いをして生まれた赤ちゃんは、きっと近所の人に可愛がられ、逞しく育って行った事でしょう。
戦国時代ライターkawausoの独り言
他の医術に比較して、産婦人科の技術はなかなか進歩しませんでした。ようやく江戸中期に加賀玄悦という助産師が登場し、死産だった胎児を母体から取り出す回生術などを指導しました。
しかし、今や妊婦の5人に1人が行う帝王切開も、日本で初めて行われたのが幕末の1852年で、伊古田純道と岡部均平という2人の医師が手術に踏み切ったものの、胎児は死亡しています。実は帝王切開が安全になったのは、1950年代とようやく70年の歴史です。戦国時代の出産は極めてリスクが高く、それだけに出産に立ち会った全員が必死になって、赤ちゃんの無事な誕生を願った一大イベントでした。
参考文献:日本中世への正体 朝日新書
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