「麒麟が来る」で注目を集める戦国時代。その戦国時代に生きたちょっとアレな人を紹介するシリーズ第2段。今回紹介するのは「今川氏真」です。貴族趣味が高じて名門今川家を滅ぼしたとして後世に悪名を残した今川氏真。果たして彼は本当に無能な人物だったのでしょうか?
この記事の目次
戦国時代きってのサラブレッドがたどった没落と放浪
今川氏真は1538年(天文7年)、駿河国(現在の静岡県中部)で生まれました。氏真の父親は、当時「東海一の弓取り」(東海道で最も強い大名)と呼ばれた今川義元、母親は武田信玄の父であった武田信虎の娘です。今川氏真は、隆盛を誇る今川家の当主である父と、武田家の血を引く母との間に生まれた、まさにこの生え抜きのサラブレッドとも呼べる人物でした。ちなみに、織田信長の4歳年下に当たり、徳川家康よりは4歳年上です。
1560年(永禄3年)、父であった今川義元が上洛を視野に尾張攻めを行いますが、その遠征の最中、桶狭間で織田軍の奇襲を受け、義元は討ち取られてしまいます。これが有名な「桶狭間の戦い」です。義元亡き後、今川家の家督を相続(近年では義元から家督を生前相続していたという説が有力ですが)しますが、今川家は桶狭間の戦いで義元のみならず、多くの重臣も戦死、更に当時今川家の元にあった松平元康(後の徳川家康)は離反して三河の地を失った他、家臣たちの離反が相次ぎました。
1568年、それまで今川家と同盟関係にあった武田信玄が、甲駿同盟の手切れ至って駿河国への侵攻を開始します。氏真は武田軍迎撃の為に出陣しますが、有力な家臣の多くが信玄に寝返り、今川軍は潰走、駿河も占領されてしまいます。わずか100騎ばかりの手勢と共に、氏真は遠州の掛川城へ逃げ込みますが、徳川家康の侵攻を受け、5ヶ月間の籠城の末、和議によって城を退去せざるを得なくなります。一般的には、この掛川城開城を持って、戦国大名であった今川氏は滅亡に至ったと、現代では解釈されています。
掛川城を失った氏真は、彼の妻であった早川殿の実家である北条氏を頼り、そのもとに身を寄せながら駿河の支配回復を目指しますが、1571年(元亀2年)に北条家当主である北条氏康が没し、その後を継いだ北条氏政がそれまでの外交方針を転換して武田氏との和睦を結んだことを受けて北条氏の元を離れ、駿河を統治していた徳川家康の元に身を寄せることになります。
その後、各地を放浪し続けた氏真でしたが、1612年に家康から江戸品川に屋敷を与えられ、そのまま1615年、77歳でこの世を去りました。戦国時代有数の大名家の跡取りとしてうまれながら、今川家を守り切ることができず滅亡させ、後半生は放浪を続けた数奇な人生を送った人物でした。
今川氏真の悪評の元は「貴族趣味」にあった
当時、戦国大名の最強の一角ともされた今川義元を父に持ち、その家督を継いだにも関わらず、結果的に今川家を実質滅亡させてしまった今川氏真。
しかしそれは、当時今川家の領地であった駿河国周辺に、織田信長や武田信玄などがおり、また、当初は今川家に人質として身を寄せていた松平元康=徳川家康の台頭など、後の戦国時代最強クラスの武将たちに囲まれた苛烈な戦国レースの結果であり、ただ家を滅亡に至らしめた、ということだけでは、そこまで後世に悪評を残すようなことはなかったでしょう。今川氏真が後世に悪評を残したのは、彼の「貴族趣味」に原因がありました。
特に、氏真の「貴族趣味」を象徴するものとして知られているのが『蹴鞠』です。蹴鞠は、平安時代に貴族たちの間で流行した球技で、鹿革で作った鞠を足だけで一定の高さで蹴り続け、その回数を競い合うという競技です。今で言うところの、サッカーのリフティングといったところでしょうか。
氏真は当時駿河に下向していた公家の飛鳥井雅綱から蹴鞠の手ほどきを受け、その腕前を知られていました。『信長公記』の記述によれば、1575年(天正3年)3発、氏真は織田信長と京都の相国寺で会見、彼の蹴鞠の腕前を聞き及んでいた信長の所望を受けて、蹴鞠の妙技を披露したと言われています。
蹴鞠と並んで知られているのが「和歌」です。権大納言 冷泉為和などから学び、江戸時代には後水尾天皇が選んだ「集外三十六歌仙」にその名を連ねるほどの名人でした。生涯に1700首もの和歌を残しています。
また、氏真は剣術の名手としても後世に知られています。戦国時代の剣士として有名な塚原卜伝に師事したとされ、免許皆伝を受けています。
氏真が公家の文化=貴族趣味に造詣が深かったのは、彼の出身地である駿河の国が「東の京」と呼ばれ、多くの公家・文化人が招かれる地であり、そもそも今川家自体が足利将軍家の景勝軒を持つ家柄であったことがその背景にあります。氏真は幼少期から公家文化に慣れ親しむことのできる環境にあったわけです。
身につけた「貴族趣味」が仇となって後世に悪評を残す
しかし、氏真が身につけた「貴族趣味」は、後世では彼の評価を下げる要因になっていることは間違いありません。武田氏の軍学書である『甲陽軍鑑』を始め、後世に記された文章には、父義元から家督を継いだ後、氏真は政務を放り出して家臣に任せっきりになり自分は遊興に耽るようになったと記されています。また、よりにもよって父親の仇である織田信長の所望を受けて、その前で蹴鞠を披露するなど、恥知らずのそしりを受けても致し方ありません。そのような、氏真の行動の多くが、後世では痛烈な批判の対象になっています。
武田四天王としてその名を残す高坂弾正は『甲陽軍鑑』に。今川氏が滅亡した原因に氏真が駿河国にいた山本勘助を起用せず、愚者や佞人を重用していた結果であると残しています。江戸時代、「寛政の改革」を行った老中の松平定信は、その自著において、政治を司る立場にあるものが「そうなってはいけないもの」例として、茶道にハマった足利義政や学問に没頭しや大内義隆と並んで、和歌にふけった今川氏真の名前を揚げています。
また大正から昭和にかけて活躍した作家、菊池寛は氏真が豪奢遊蕩が激しく、心ある家臣からその名を呪われた「今川家のキャンサー(がん)」であるとして痛罵しています。内政を放り出して遊興にのめり込み、父親を殺した仇の前で蹴鞠に興じてみせる……確かにそれだけを取り出してしまうと、今川氏真のイメージは最悪と言わざるを得ません。後世に暗君として伝えられるのも、無理はないでしょう。
……しかし、本当に今川氏真は暗君であったのでしょうか?
再評価されつつある今川氏真の政治手腕
父義元が桶狭間で討ち死にして後、今川氏真が最初に着手したのは国の経営でした。普通なら父の仇を討つべく、織田信長に対して弔い合戦を仕掛けそうなものですが、氏真は戦国大名としての名誉よりも、まず国の安定を優先したのです。これには桶狭間の戦いで多くの今川軍の武将が討ち死にしたことも大きく影響しています。氏真は名誉より現実を選択し、まず国を立て直すことを考えたわけです。
氏真が行った施策の中で知られるのが、2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』でも描かれた「伊井田谷徳政令」です。徳政令とは主に鎌倉時代から室町時代にかけ、朝廷・幕府などが債権者(金貸し)に対し債権の放棄を命じる法令のことです。
つまり、金貸しに対して貸しているお金を帳消しにしろ、と命じる法令ですね。この徳政令は、氏真が「徳のある政治」を志して行ったとする見方をする研究者もいます。もちろん、貸した金を帳消しにされてしまえば、金貸しにはたまったものではありません。そこで氏真は徳政令に従う金貸しに対して商人として特権的な地位を与え、不満が爆発しないよう、バランスある政治運営を心がけたと言います。
また、氏真が行った政策として有名なものに「富士大宮楽市」が挙げられます。楽市とは楽市令と呼ばれる法令のことで、大名が支配地において規制を緩和し自由な商売を認めるという政策です。「楽市楽座」とも呼ばれ、織田信長が行った政策として有名ですが、今川氏真は信長に先んじて「富士大宮楽市」を布いており、信長の楽市楽座の政策にも影響を与えたと言われています。
氏真がわずか手勢100名ばかりと共に逃げ込んだ掛川城に対し、徳川家康は圧倒的な戦力を持って攻撃を行い、その戦力の差から開戦当初、掛川城は「1日たりと持たない」と言われました。しかし掛川城は氏真の家臣たちの奮戦のおかげで、実に5ヶ月も落城することなく持ちこたえています。
徳川との和議にあたっては、氏真が家康に家臣の助命を条件にしたとも、あるいは家臣たちが氏真の命乞いをしたとも言われていますが、結果的には氏真自身ばかりでなく家臣たちも、処刑されることなく難を逃れています。果たして、氏真が菊池寛の言う「今川家のキャンサー」のような愚鈍な君主だとしたら、このような結果はありえたでしょうか?
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