千年の古都、京都。その象徴と言えば西暦794年に造営開始された「鳴くようぐいす平安京」です。しかし、現在の京都の観光地は東寺を除き、ほとんどが元の平安京の郊外に広がるエリアだった事をご存知でしたか?
それより何より、そもそも平安京は未完成なまま造営を中止した、中途半端で残念な都だったのです。
この記事の目次
湿地帯の為に衰退し消えた右京
平安京は、天皇の住まいである北の内裏を中心に右京と左京に大別された都でした。
ところが、平安京が造営された京都盆地は、北東から南西にゆるやかに傾斜していて、左京はともかく、右京全体は紙屋川と桂川の氾濫地帯にあり水はけが悪い湿地が多く、住宅として利用するには難しかったようです。
その為、北西部のみが部分的に宅地化されただけで、平安後期になると平安前期から中期の建物が崩れ落ちて、耕作地に変化。全体的には田園地帯に変わったのです。
事実、遷都の言い出しっぺの桓武天皇は、平安京は人民に負担をかけるだけで、これ以上建設する意味もないとして、西暦805年、平安京造営中止の詔を出しました。以後の平安京は完成した部分だけの修理と増築だけを行い全体としては未完成に終わったのです。
洛中・洛外という言葉の意味
右京が衰退し消滅した事を端的に象徴するのが、洛中・洛外という言葉です。
平安京造営当時は、左京を洛陽城、右京を長安城と呼び分けていました。これは唐の時代の二大都市、洛陽と長安になぞらえた呼び名です。
でも、右京は間もなく寂れてしまい、左京しか機能しなくなったので、長安城の呼び名は消滅。やがて平安京そのものが洛楊城、やがて縮めて洛と呼ばれるようになります。上洛のらくですね。
安土桃山時代、豊臣秀吉が京都の主要部分を取り囲む御土居を構築して以降、その内部を洛中、外部を洛外と呼ぶようになりますが、洛中には右京はほぼ含まれません。
貴族と名門武家の街左京
北東部にある左京北部は、貴人の邸宅が連なり、庶民の住居も軒を接して立ち並びますが、そのせいで火事が発生すると広い範囲が延焼する事になりました。
逆に、左京南部は排水困難な土地でしたが、平安後期になると治水対策が進み、新たな街路や街区が整備されます。長らく手つかずだったので、土地があまり、院政の有力者や平家のような新興勢力が広大な邸宅を構えるようになりました。
平安京を破壊する住民
平安京は広大な面積を持つ都なので、とても行政だけでは管理が間に合わず、延喜式には住民に対し街路の清掃や街路樹の植栽の義務がありました。それぞれの坊と条の責任者は、受け持ちのエリアを定期的に巡回して清掃義務の遂行を監督、違反者は、高級役人は人事査定の低下と減俸。下級役人や庶民は鞭打ち刑を科せられました。
平安京の坊の周囲は大路の両側の築垣で囲まれていて、三位以上の公卿しか、大路に面した門屋を造れませんでした。その他の人々の坊への出入りは、小路に対応する坊門だけで築垣にボコボコ穴を開けるのは許されず、実用性よりも美観が重視されていたのです。
しかし、罰則はすぐに有名無実になり、庶民は街路の築垣に穴を開けて水路を通していましたし、垣根は簡単に崩れ、メインストリートの朱雀大路に馬や牛は放し飼い状態。夜は垣根の内が盗賊の巣窟になっていたようです。つまり、唐の長安を模した築地塀は、あっという間に住民に崩され穴ぼこだらけになり、土壁で区切られた美しい区画は消えてしまいました。
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