参勤交代と言うと、長期の旅である上に多額の費用がかかる事から大名はさぞ嫌がっていたのではないかと考えてしまいます。ですが、事実はそうでもなかったようで、むしろ江戸に行く事を喜ぶ大名が多かったとか、今回は色々と複雑な事情をはらんだ参勤交代について考えます。
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外様大名が自発的に始めた江戸参勤
参勤交代は徳川幕府の3代将軍の徳川家光の時代の寛永19年(1642年)に参勤交代を制度化し、これにより外様も譜代大名も例外なく江戸と国元を一年交代で往復していました。しかし、元々江戸参勤は、慶長五年(1600年)頃から外様大名を中心に自発的に開始されたものでした。
ここに家康が目を付けて、人質的な意味合いで大名の正室と嫡男を江戸に留めるようになりますが、太平の世が続き藩の財政が伸びる道が断たれると、参勤交代の費用が藩の過大な負担になっていきました。
藩の予算の53%が参勤交代の出費
参勤交代における藩の負担がいかに重かったのかについて、データを見てみると、万治2年(1659年)鳥取藩主の池田氏は、藩の全収入銀1503貫目の収入から、江戸での出費が800貫目に上り、藩の予算の53%を参勤交代の費用が占めています。
ただ、鳥取藩はまだマシな方で、安永5年(1776年)の岸和田藩岡部氏の財政は、江戸での年間支出が71%、参勤交代費用が13%と84%が参勤交代関連費用でした。裏返してみれば、三百諸藩が参勤でお金を落としてくれるから、五街道と江戸の百万の人口は潤ったのだと言う事も出来るでしょう。
浅野内匠頭は田舎大名ではない
そんな、藩の財政を圧迫する参勤交代、大名達は江戸に上る時はさぞかし故郷が恋しくなったのだろうと思いきや、実は真逆で、大名達はほとんど江戸に行く事を喜んだそうです。
どうして、そんな事になったのか?それも幕府が決めた人質制度に原因があります。幕府は三百諸藩の正室と嫡男を江戸に留めるように義務付けました。するとどういう事になるかと言うと、江戸に生まれた嫡男は大名家を継ぐまで故郷に帰れない事になります。
そうなると、成人するまで江戸で育つ事になり、言葉も江戸弁になってむしろ先祖の地がアウェイになってしまうのです。
忠臣蔵で吉良上野介が浅野内匠頭(長矩)を田舎大名とバカにするシーンは有名ですが、実際の内匠頭は江戸生まれの江戸育ちで、全然田舎者ではなかったのでした。
事実、徳川吉宗のブレーンを務めた荻生徂徠も、
「いずれも江戸そだちにて、江戸を故郷と思う人なり」と政談という書物で述べています。
幕末のあの人々も皆江戸出身
幕末の会津藩主として人気が高い松平容保ですが、彼は天保6年(1835年)に美濃高須松平家に生まれ、やがて会津藩に養子に入った人ですが、容保が生まれたのは江戸四谷にあった高須藩上屋敷で、引っ越し先も江戸城和田倉門内の会津藩上屋敷でした。実際に岐阜から福島に引っ越したわけではないんですね。
幕末四賢侯の島津斉彬も、若い頃に一度薩摩に戻っただけで、生涯の大半を江戸で過ごしていました。藩主になり薩摩に帰ってから、チェストーと絶叫し巻き藁を打つ薩摩示現流の稽古を見学して、その野蛮な事に驚いたという逸話があります。逆に言うと、洗練された江戸にいたからこそ、斉彬は世界中の情報を収集し視野を広く持つ事が出来たとも言えますね。
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