日本中が連日戦争状態だった戦国時代。その戦国時代の始まりについては、応仁の乱を最初とするもの、観応の擾乱を区切りとするもの、北条早雲の伊豆侵攻を最初とするものなど様々です。この程度の事なら戦国好きなら常識でしょうが、実は戦国時代そのものにも時差があったという事実は御存じでしょうか?
今回は、決してヨーイドン!で始まってはいない戦国時代について解説します。
この記事の目次
戦国時代を生きていた人は今が戦国って気づいていた?
21世紀の私達は、日本の歴史を学校で俯瞰的に教わります。
例えば、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代等ですが、もちろんその時代を生きていた人々は、自分達が縄文時代に生きていると認識していたわけではありません。縄文と言うのは、当時の土器に縄目の模様がある事から名付けられ、弥生は弥生式土器が弥生町という所から出土したからで、これらの名称は飽くまで、現代の私達が日本史を区分する為に便宜上付けたもので、当時には存在しない呼び名だからです。
では、戦国時代もそうなのでしょうか?
実は戦国時代を生きていた人々は、戦国時代とまで定義しなくても現在が戦国の世であると意識はしていたようです。例えば、武田信玄が編成した分国法「甲州法度」にも戦国という言葉が出てくるので、あーヤバイ、今は油断したらやられる時代なんだなという共通認識は、多くの人が共有していたと考えられます。
東北の戦国時代は80年遅れ
さて、戦国時代には時差があると書きましたが、奥羽での戦国時代は天文11年(1542年)に勃発した天文の乱であるようです。奥羽は、応仁の乱の紛争をよそに奥州探題の大崎氏や羽州探題の斯波氏の支配力が低下しながらも、伊達氏、南部氏、最上氏、芦名氏などの有力大名の均衡状態が維持されていました。
ところが、天文11年伊達稙宗・晴宗父子の外交政策の対立から内紛が発生し、それに周辺の大名が巻き込まれて大争乱に発展します。応仁の乱から考えると、奥羽の戦国時代は80年程遅れて始まったという事になるのです。
関東の戦国時代は応仁の乱より早かった
奥羽で80年遅れになった戦国時代ですが、関東では逆に本家の近畿の戦国時代より早くなりました。室町時代の関東は幕府の出張所として鎌倉府が設置され、室町幕府2代将軍、足利義詮の弟、足利基氏が鎌倉公方に就任。その子孫が代々君臨していました。
ここまでは良かったのですが、幕府は鎌倉府のナンバー2として関東管領の上杉氏を任じたところ、関東の自立を守りたい鎌倉公方と幕府の支配を届かせたい関東管領の間で利害が対立、抗争を繰り広げたのです。
応永23年(1416年)関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻し自害に追い込まれます。ところが勝った持氏は、足利義教が6代将軍に就任した事に不満を抱き幕府との対立姿勢を打ち出し、永享11年(1439年)幕府の討伐軍に敗れて自害しました。これにより鎌倉公方の座は空位になりますが、持氏の4男の成氏が幕府の支援を受けて5代目の公方に就任します。
しかし、足利成氏は、享徳3年(1454年)お目付けの関東管領の上杉憲忠を謀殺。これを将軍足利義政は反逆と見做し、足利成氏追討を下知、駿河の今川軍が鎌倉府を陥落させて戦争は終わる筈でしたが、成氏は鎌倉府を棄てて、古河へ移動し古河公方と呼ばれ上杉氏との抗争を継続していきます。
この間、管領上杉氏も、山内上杉と扇谷上杉に分裂、古河公方と三つ巴の戦争に発展して、周囲の守護大名も巻き込まれ、幕府のコントロールが不能になります。つまり、関東では応仁の乱より14年早く戦国時代に突入した事になりますね。
九州の戦国時代は陶晴賢のクーデターが契機
では、九州の戦国時代の始まりはいつになるのでしょうか?
調べてみると北九州から中国地方まで広大な勢力を握っていた大内義隆が重臣の陶晴賢のクーデターで討たれた天文20年(1551年)が大きな戦乱の契機でした。
その頃、北九州では大友義鎮(宗麟)が大友氏の家督を継いだ直後でした。この義鎮の弟は、子供がいなかった大内義隆の養子に入って大内義長と名乗っていましたが陶晴賢は、大内氏の権威を利用しようと殺さずに傀儡として担いでいました。
しかし、元々大内義長は、大友氏の人間である為に中国地方の豪族は誰も従いませんでした。その後、陶晴賢は大内氏打倒では協力した毛利元就と抗争を開始しますが、厳島の戦いで大敗し大内義長も元就に殺害されます。
ここから、大内氏の広大な領地を巡り九州博多を得たい毛利氏と弟が大内氏の当主だった事を理由に中国地方に勢力を伸ばしたい大友氏の抗争が開始されるのです。
ただ、九州は北と南で別れていて、南九州は島津日新斎(忠良)が分裂していた島津氏の伊作家から出て、南薩摩を統一した天文9年(1540年)辺りから本格的な戦国時代に突入していくようです。
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