

後漢の時代、役人になれるのは生活に余裕があり学問を積む事が出来る士大夫階級が大多数でした。一般には孝廉という制度で推挙されたり、さらに上の五府から辟召を受けたりしつつ、いやいや私などはという顔をして謙譲を装いつつ仕官するのが普通です。しかし、あわてるなんとかは貰いが少ないというように、後漢には辟召を超える究極のジャンピングチャンスが存在したのです。
この記事の目次
何十年もかかる孝廉のキャリア
後漢の時代の一般的な人材登用法は孝廉でした。しかし、孝廉に通る為には、無位無官から県の属吏になり、さらに郡の属吏まで昇進している必要がありました。孝廉の平均年齢は30歳頃なので二十歳で成人したとして、およそ10年くらいは地方の役所でキャリアを積む必要があります。
ここから孝廉を経ると人材は郎という君主の護衛官になり、1年目は郎官で300石、2年目は侍郎で400石、3年目には中郎で600石に昇進しました。
ここから空きがあれば、小県の県長(300石)か県丞(200石)ポストに任官し、ミスが無ければ、中県の県令(400石)大県の県令(600石)へと昇進していきます。およそ、ここまでに仕官してから20年程かかるので、人材は40代くらいになります。
三公になる頃にはお爺ちゃん・・
県令のポストを3回経験して10年が経過すると、ここからは能力や名声で、キャリアが枝分かれしていきます。出世が早い者は郡国の太守・国相(2000石)に任命され、河南尹や京兆尹のような首都の知事ポストへの道が開け、それ以外は州刺史(600石)や中央の尚書や九卿に属する令(600石)に任官し、仕事ぶりにより出世が早くなります。
郡国の太守や国相は遠方から洛陽や長安に近づく事が出世で河南尹や京兆尹、左馮翊、右扶風になれるといよいよ九卿になれる可能性が高まり、この九卿ポストを3つ程歴任すると1万石の三公に昇進し位人臣を極めました。
ただ、その頃には若くても60代、普通は70代とかなりの高齢者になっていて、立ちっぱなしの朝儀に耐えられない人も出たそうです。つまり県の属吏から三公までは、普通40年から50年もかかる長い道のりだったのです。
激動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志』
長いキャリアをショートカットする方法
しかし、正直な話、士大夫なんか労働は私有民に任せて、一生遊んでも食える有閑階級でした。そんな彼らが大した給与が出るわけでもない窮屈な役人になるのは、最終的には中央に上り、九卿、あわよくば三公まで昇進して皇帝や外戚、宦官とのパイプを構築して故郷に利権を引っ張ってくるために過ぎません。
ならば、宮仕えで何十年も苦労したくない、簡単にサクッと昇進したいと甘えた事を考えるようになるのが人情。そんな士大夫の身勝手な夢を叶えてくれる特別制度が辟召でした。
とってもお得な辟召
辟召とは、五府の長、大傅、大尉、司徒、司空、大将軍と九卿、州牧、州刺史が行える特別な人材登用制度で、出世の早道になるのは五府の辟召でした。辟召に挙げられた人材は、大傅府、大尉府、司徒府、司空府、大将軍府それぞれの属官になった後、高第に挙げられ侍御史(600石)を経て、州刺史、国相、郡太守へ上ります。
さらに辟召は、士である必要もなく庶民でも登用出来る上に、回数に制限がなく、おまけに一度、侍御史になると、そこに留まる事が少なく、郡太守、国相の2000石相当の高級ポストに有利な制度でした。
夢を叶えて袁術もん!
三公のポストでお気づきの方が出たかも知れませんが、この辟召制度を活用したのが四世三公の袁家で、およそ1世紀もの間、三公を出し続けた袁家が辟召した人材は膨大な数になり、後漢末の風雲で袁紹や袁術が高い声望を得るのに非常に大きく貢献したのです。
いずれにせよ、辟召を受けられれば、20年間安月給でヘーコラする必要もなく五府の属官から、侍御史を経て郡太守、国相ポストにつけたのですから誰もが羨望した事でしょうね。こんな有利な制度ならkawausoもお願いしたいですよ、夢を叶えて袁術もん!
辟召も断る究極のジャンピングチャンス徴召
ところが、士大夫の中には、不届きにも五府の辟召さえ辞退して受けない人がいました。決して謙遜ではありません、実は、辟召の上には皇帝が直々に人材を登用する徴召という最高のジャンピングチャンスがあり徴召を受けたいなら建前として辟召は辞退しておく必要があったからです。
古来、中国には帝王が在野から直接人材を登用するという制度がありました。
徴召は、これを皇帝の特権として皇帝が直接に人材を登用するもので、出迎えに公車が派遣され応じた人材は待詔として待機した後に天子に謁見を許され、その後、側近や県の長や令として転出させる事になります。
建前上、天子の判断に間違いはない事になっているので徴召に応じた人材は、確実に高い地位に就く事が可能になりました。本来なら、徴召が最高の令でしたが、後漢中期には儒教の虚礼が最高点に達し、かつ官に仕えない隠者の風が流行したので、徴召さえ断る人材が登場し、皇帝はさらなる徴召の方法を考案しないといけませんでした。
なんかメンドくさいっすね、儒教って、、
ジャンピングチャンスには名声が必要
ただし、辟召にせよ徴召にせよ、それを受ける為には世に知られないといけません。儒教全盛の後漢で世に知られるには、儒教の徳目を虚礼でも実践してみせる必要があり、それを人材鑑定家の許劭のような人が評価して名声が高まりました。袁紹が若い頃、父母の喪に6年服して親孝行をPRしたというのは、この虚礼です。
許劭のような後漢のインフルエンサーに知られるには名士の世界で交流を持つ必要があり、時間も気苦労もお金もうんと掛かりました。
結局は、地道に役人としてキャリアを積み上げるか、名士層と頻繁にお付き合いしてパーティー中毒になり、インフルエンサーに自分の名前を覚えてもらって知名度を上げるか、元々、四世三公のような高貴な家柄に生まれるか、出世には、このいずれかの方法しかなかったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
今回はキャリアジャンピングチャンスとして、孝廉以外の超速の出世方法、辟召と徴召を紹介してみました。でも、どちらを選ぶにしても方向性が違うだけで地道な努力が必要な事は違いないんですよね。最初から四世三公の家に生まれれば、必要ない苦労なんですけどね・・・
参考文献:史実三国志 新たな発見に満ちた真実の三国志に迫る 宝島社
関連記事:曹操の人材登用法が魏国の安定をもたらす!能力主義者・曹操の二段構えの政策とは?
■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■



















