三河の弱小戦国大名の家に生まれ、織田家、今川家の人質として幼年期と青年期を過ごしながら桶狭間の戦い後に独立。織田信長と同盟し秀吉と天下を競いガマンにガマンを重ねて天下を獲った苦労人、徳川家康。
そんな家康の辞世の句には家臣の自殺を禁止するメッセージが込められていたってご存知ですか?
この記事の目次
徳川家康の辞世の句とは?
さて、そんな徳川家康の辞世の句は、以下のようなものです。
先に行く あとに残るも 同じ事 つれてゆけぬを わかれぞと思う
意味は、私は一足先に行くが、お前達は残されるとはいえ、いつかは来る道なのだ。あの世で再会するまでのお別れだから、急いでついてくるなよ。
現代の感覚で聞くと、俺は一足先にあの世で待ってるぞ、バイバイ!お前らはゆっくり来いよと呑気に言っている感じに聞こえます。でも、時は戦国時代であり、家康の辞世の句には強いメッセージ性がありました。家康の言う連れて行けぬとは、後追い自殺、すなわち殉死を禁止するものです。
流行する殉死に家康が喝!
武士の世界における殉死の習慣は長い間、敗戦により主君が腹を切った時に供をするという場面に限られ、主君が病死した場合に殉死する習慣は戦国時代にはありませんでした。しかし江戸時代になると、合戦の機会が減って戦死する機会が減少したので、忠義の示し方として主君が病死しても殉死する習慣が生まれたようです。
江戸時代の殉死の最初は、1607年、徳川家康の4男、松平武蔵守忠吉が病死した際、近臣の稲垣将監、石川主馬、中川清九郎が腹を切ったのが最初のようです。この事件は江戸幕府にも伝えられますが、老中たちは「あっぱれな忠義」とでも思ったのか、何も言いませんでした。ところが、この殉死に猛烈に機嫌を悪くした人がいました。大御所として駿府にいた徳川家康です。
家康激怒、殉死を許す主君はバカだ!
家康は、老中たちが殉死を止めなかった事を問題視し、何としても止めるべきであり、それでも無理なら将軍に申し上げて処罰すべきと厳しく言い、さらに
「殉死などは昔からあるが、意味のない事だ。死ぬほどに主人を大事に思うなら、
生きながらえて後継者にも忠義を尽くし、万が一の時には一命を投げうつのが真の忠義である。主君が病死したとて意味もなく追い腹を切るのは犬死であり家臣にそれをさせるのは主君がバカだからで、普段から重々殉死を禁じないからだ」
このように厳しい調子で批判します。家康の怒りように、江戸の重臣達には戦慄が走りました。
同年の殉死を最小限に防ぐ
同年の閏4月、今度は越前黄門結城秀康が北之庄で病死します。日本人の性質からして、武蔵守様にも殉死者が出たのだからうちでも・・等と同調圧力が働くのは確実でした。それを察知してか、すぐに将軍家より結城家に書状が送られ第一に殉死を禁止しました。家康の激怒を深刻に受け止めた証拠です。さらには、大御所の家康からも同じような趣旨の文書が出されます。
「黄門が死んだ事で殉死の者が出たと聞き及ぶ。一時の激情による死は易く、後継者を盛り立てて忠節を尽くすのは難しいものだ。ましてや、北之庄は北国枢要の地で国家鎮護の第一であり、死去した黄門に忠義を尽くすものは、一命を全うして御命を待て。くれぐれも無益な殉死は禁じる。もしこれに叛くものあらば、子孫まで絶やすものと知れ」
この書が到着する前に、永見右衛門、土屋左馬助という秀康の近臣が殉死しましたが、それ以上の殉死者は出ませんでした。
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